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掣圏真陰流 道場 7月中旬オープン
本当にお待たせ致しました。
いよいよ私の格闘思想の真髄をかけた実践場が出来ます。
格闘技に限らず、すべての物事に対するプッレッシャーや集中力に完全決着します。
修斗以前から、私が目指して来たものは歴史上のものです。
当初は実戦だけを追い求め、最強の格闘技を造ろうとしていました。
色々な局面に対し最も大きな壁に当たったのが精神です。
一からやり直すのに遅すぎはしないと思っていました。
精神分析学から念入りに始め、何十年かかってもやるつもりでした。
途中何年も浪人したのは研究機関をおくためです。
しかしこの間のプロレスの衰退ぶりには驚きを隠せません。これも必ず戻して行きます。
どうすれば人は強くなれるのか、格闘技とは何か、精神に行き着いたとき、格闘性は精神も含め戦闘を基準に置いていました。
もちろん素手による格闘の技術論もコーチングも、私にとって10年前に終わっています。
技術論は無くしたわけではありません。精神論と合体した今、何がおこるか待ちきれません。
ユング式の精神分析理論を基に意識と無意識を活用した、戦闘理論を展開したとき、その無意識は、本能と普遍的無意識と個人的無意識の作用から意識に表れるものです。
何事も堂々と信じるものがある者が強さを得る基準を持つ。真陰流精神術の一段階目の基準「陰」の存在です。
普遍的無意識は歴史や宗教にまで行きます。
私が歴史の真実に熟知しているのはこのためなのです。
強さの作用を構築する術と、基準(無意識)を熟知しなくてはならなかったのです。
二つを統合したとき、武士道に行き着きます。
武士道による無意識の基準値は「義」です。
武士道を科学的見地に基づき、現代の世界価値観に合わせたもの。
掣圏真陰流はおそらく皆さんの予想をはるかに上回る歴史上の武道になるはずです。
掣圏は素手(ナイフまで考えております)による戦闘術。
真陰流は精神術となります。
武士道 掣圏真陰流 道場 「興義館」
「掣圏コース」(実戦格闘術) 武士道空手コース・真陰コースを併用できます。
一般マンツーマン方式・総合実戦 月曜〜土曜
バック・ミット・スパーリング
「武士道空手コース」
クラス方式・グローブ空手ですが、総合実戦での基本も行います。週二回
「真陰コース」
スーパー禅(真陰流式自己催眠啓発)クラス方式・週二回
「リアルジャパン・プロレスラー養成コース」
全日内弟子制度
オプション「戦闘生理学催眠」
オプション「ヒプノセラピー」
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スーパー禅(仮称)
活
掣圏真陰流は真の強さを当たり前のごとくこなす。
義ある強者を造ることは私に課された歴史の責任である。
打・投・極 もはや技術と指導力が一流を行くのは当たり前である。
真の強さは技術や体力ではない。無意識に眠る正しいと作用する義の反応なのだ。
これまで妥協を許さない私の練習法は厳しいとされていた。
プロに対する体力的トレーニングは、最大限を導くためにアドレナリンを生かした、見た目にも大変厳しいものであった。
それが必要なくなる。いやそれ以上のものとなるのが特殊自己催眠法「スーパー禅」である。
意思の作用を意識から行うのではなく、無意識が平然と行ってしまうものだ。
かといって柔なものを私が造るはずがない。義と誘導が一体となって最強が訪れる精神の道である。
世の中、飽和状態に義の全てを無くしてしまった我々は、確かに平和ボケの中に、宗教的モラルを失い、宗教を拒否しているくせに、金が神になってしまった。
社会の中で最も重要なのは精神なのだ。精神性とモラル性は何が関係あるのか。
キリスト教に新訳聖書、イスラム教にコーラン、ユダヤ教にトーラの存在があり、それらに格とした教えがあるのに対し、全てに神が宿る八百万神思想を持つ私たちが、武の中に仏教と遭遇した安らぎがモラルを構築してきた。義の存在を確固なものにしたのである。
変性意識(催眠誘導時)は無意識に構築する、正しいと感知したものに働く。
心から変える。心を変え誘導によって強さは現れる。
強さとは、道で困った人を助ける事と、戦いで退かない事に何ら変わりはない。
構築と信じる力は誘導を受けたとき、素直に最強になる。
武と士と道が一体になり義になるとき、自己催眠と合体し不動の精神はより強く構築されるからだ。
掣圏真陰流が行う自己催眠誘導「スーパー禅」は、真の強さを導く。
掣圏真陰流は現代科学に武士道という、最高の構築を取り入れた精神術である。
いよいよ掣圏真陰流「興義館」道場が出来る。場所取りに少々時間がかかったが、それほどかねてより私が望んでいた、その昔、侍の剣術道場があった所に聖地を求め、ここぞという場所にした。
私の全霊を懸けた現代武士道はここから全てを発信する。
世紀の精神術となるだろう。
武道家やアスリートだけではない。全ての人が背負うストレスや精神障害にも対応する。
興義館には催眠セラピー室も完備している。
日本が一番遅れている精神制御部門を、最高の基準「武士道」で、世界bPの精神世界へ一挙に導くのだ。
本当の武士道の深さが世界に理解されるだろう。
すでに何百人の人がテストで体験済みだが、デモンストレーションとして、この禅を体験したい人は一報ください。
ストレス、自律神経失調、更年期、自律神経から来る肩こり腰痛なども、精神障害くらいのうちに早めにどうぞ。
アスリートに行うものは暗示において別物ですが、元々掣圏真陰流は戦闘精神生理学という、ある思想の基に私が特別に開発したものです。
もっとも過酷な状況を想定し、安らぎと集中を科学したものなので、一般の精神障害くらいは基本となります。
もちろん催眠は古代エジプトから存在したもので、私が開発したものではありません。重要なのはどう誘導し、暗示するかなのです。
他者催眠、自己催眠、禅、戦闘精神生理学は、この道場を基点にどんどん進化していきます。
名前は掣圏真陰流「興義館」 場所は御茶ノ水、日時は7月中旬オープン。
一般会員による、武士道クラス。武士道空手クラス。スーパー禅クラス。一般ヒプノセラピー。
リアルジャパン・プロレスラー養成クラス。
拝啓
初夏の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。
掣圏真陰流の武の精神追及は佳境に入り、急速に進んでおります。
心技体が一体化し、かつ歴史上、二十一世紀にふさわしい新武道は、古来の武士道のDNAを継承し、科学をも駆使した精神武道でございます。
三十年前、総合実戦格闘技を創始したときに目指したものは、戦い方こそ違えども、精神性を伴う相撲のようなものでした。私の追及はまったく変わっておりません。
「義」と「戦い」 この全てが若者の精神を創ってくれます。
実戦場の道徳と、人生の道徳は義によって共有され、同じようにその人間形成も義によって共有されていきます。
我が国の宗教性は武士道と交わることにより、独特の精神文化を築いてまいりました。
鎌倉武士道、吉野時代の武士道、室町時代の武士道、江戸時代の武士道、明治の武士道、昭和の武士道。
時代の背景からも現代に興す武士道とは、二十一世紀という世界観を見据えて構成させなくてはならないものです。
武士道は宗教ではありませんが、規範心と共にあるもの。私たちはそのDNAを共有し、最高の文明を授かってきたと心得ます。
武士道思想と現代科学がもたらす驚異的な掣圏真陰流は、もはや精神の中枢部に触れております。
確信を完成し実践するには、道場からの発信となりますが、ただ今、掣圏真陰流の精神作用を促す専用道場を造っており、催眠セラピーをも兼ねた完全なる武道精神場となります。
武道が精神を育成し、強さを備え、心を安らがせ、治療をも出来てしまうことが、当たり前の時代が来ます。何故なら真の武道家こそが、精神の極地をわきまえた存在でなくてはならないからです。
敬具
リアルジャパンプロレスでは来る六月七日水曜日 午後六時三十分
一周年記念として、後楽園ホールにて試合を開催致します。
初代タイガーマスクの試合、掣圏真陰流ジャケトマッチトーナメント他、真剣を刃引きした刀による、新剣術の撃剣トーナメントも同時に開催致します。
掣圏真陰流 佐山 聡
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心得るべし事
武
侍とは何か、最初に「武」そのものを理解しなくては、とても武士道精神は身につかない。
「武」とは戈(ホコ)と止(あし)で構成されている。
戈とは槍などの武器のことで、武の原語は戈を持って足で堂々と前進するという姿だ。
このことからあくまでも「武」とは雄々しいとか強さを指す。
近年、止(あし)を「止める」と解釈し、武器すなわち戦いを止めるという意味も形づけられようとしている。
しかし原語の意味からも、武がリベラル的な解釈から意味されたものではなく、敵の戈を戈で止める防衛を指すものだ。
決して武からリベラル的な意味合いを定義づけてはならない。
あくまでも雄々しき侍の魂である。
武士道を習う者は「武」をよく理解し、本質を覚悟しなくてはならない。
真の意味に誇りを持たない限り、武士道における「勇」は表われるはずもないからである。
一方「士」は徳を修めた立派な男子を指す。
武による徳を修めた者を侍というのだ。私は筆でサインを書くとき、好んで「武徳」と書く。
「士」の無い武は勇ましいだけのもので、成り上がりやハングリーや、匹夫の勇でしかない。
それらはしょせん勝ち得た時に消えて行き、薄っぺらな自己の経験を頼るだけの姿をさらけ出す。
「士」を陰に植えつけたサムライは、どこまでも勇を持ち続け前進する。
また「士」があるから「武」が広大するのだ。
戦後、ウォーギルトインフォメーションによって精神性を無くした現代、サムライのイメージは多くの人が理解できないものになってしまっている。
映画や時代劇で見る侍は、ポピュラリズムとリベラリズムを意識し、「義」を貫く者ということは美化はしているが、真の侍像は表わしていない。
強さとは、戈を持って堂々と前進するというものである。
大いなる大義を背負っている者の威厳である。
それは義を外した者や、身勝手な者に対しては、大いなる恐怖とさせる。
誤解のないように、恐怖とはあくまでも秘めたる威厳である。
義をつらぬく威風堂々とした、礼儀正しい態度は目に正義と狂を併せ持つ。
現代は狂という言葉を悪い意味にされているが、侍の時代は良い意味にとらえられていた。
匹夫の勇が脅しで与える怖さどころではない。
義のために果てしない武信を秘めた、どこまでも深い侍の威厳なのだ。
精神性を無くされてリベラルに走らされ、将来起こることも見えずに追随する姿。
リベラル漬けにされた現代日本のメディアに、侍の本質を伝えることは出来ないだろう。
武士道精神とは戦闘精神の心得から生まれた規範である。
その姿を理解できない限り、真のサムライはイメージできない。
任侠道でもないし紳士道でもない。わが国が生んだ独特の精神文化なのだ。
陰は果てしない勇を秘めた意思「最強」をもたらす。
現代における侍像とは、服装と身なりは地味ではあるが、きちんとしていて、礼儀に秀で、威厳ある風格を持つ者。
威厳は侍としてのものであり、任侠や不良のものとはかけ離れる。
金髪、茶髪、イヤリング、タトゥー、時代劇にもそのような馬鹿が登場するが、どんな姿か想像して見てくれ、まともな侍にそんなのはいない。
時代の彼方に平成の馬鹿と呼ばれるだけだ。
真の侍は昔も現代も、普段は礼儀正しく規範に優れ、義を外す者や敵に対しては、驚異的な威嚇力と行動を勇とする。
国体を守る武士の覚悟は行動に表わせなくては何もならない。
まずは己の態度から造っていくことが重要である。
若い諸君には精神的「義」の構築と、弱さへの免疫を造っていき、おのずと信・義・態が備わる者になることを目標とするものである。
一番よりもみんな仲良く並んでゴールだとか、脳内ホルモンのエストロゲン、アンドロゲンを無視させられ、男女同じに育てられるという、歴史的な馬鹿教育に冒されている君たちが自立するのは、結果的に精神性の崩壊につながった無意識を、真の武士道で復活させるしかない。
最後に「道」とは、当時、侍の時代なら藩やお家を守ることである。現代なら国ということになる。侍は威厳と自己の見本によって、国体を守る規範のリードをする者である。
掣圏真陰流 創師 佐山 聡
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義
「義」は漠然と正義という解釈ではなく、義理でもないし、ましてや男気でもない。
侍にとっての絶対的な精神の支柱である。
ある摂理に向かって衝動する、最も強い脳神経の主軸であるのだ。
掣圏真陰流は新訳武士道として真の「強さ」を導くために、武士道精神の復古と、最新の心理学(精神分析学・催眠・大脳生理学)や、世界観を分析し、日本人が失った誇りや規範心を構築するための術である。
真陰流を学ぶ上で「義」は大変重要な部分ですのでしっかりと理解してもらえれば幸いである。
私はよく礼儀礼節をいうが武士道は紳士道ではない。かしこまってお行儀よくするためのものではないのだ。
侍の魂は「武」の背景によって構成された士道である。
和にかしこまるものではないし、横暴に振る舞ったり、横暴の中の礼儀でもない。
義は勇をもたらし、義の守護のために、武をもじさない覚悟こそが侍の作法である。
単に「無」とは、何も煩悩が無く、緊張や驚きという感覚をも消し去るものである。
心地よく優雅な状態でそれが行われれば、精神的に何も無いロボトミーのように感情や衝動も起こらない。
侍が「儀」に向かうとき、意思が無ければ物事に対処する事は出来ない。
「不動心」とは、強力な煩悩に対しても心地よく優雅な状態で意思を通してしまう「強さ」をいう。
それは深い世界観から生じる「無」と合体しなくしては達成できない。
煩悩を拒絶するための「落ち着き」だけでは、油断につながるだけなのだ。
また、全てが予知、あるいは見えていれば人は「不動」の感覚でいられる。
「義」は全てを見せてくれる存在であり、全てとは潮流の継続への摂理「死生観」を指す。
「不動心」とは「義」が見えている感覚から来る「強さ」の感覚なのだ。
「義」とは潮流摂理への、死の覚悟が見えていることとなる。
「義」への死生観は、自殺などの死生観などと、まるで中身が異なる。
また侍の死の覚悟は、匹夫の「勇」たる無頼のものでもない。
意思があり、深さがあり、広さがある、真の「不動心」者たる者の「陰」から発祥されるものなのだ。
何事にもブレない優雅な「不動心」は、「義」を持つ人格者から生まれ、一旦「義」ある時は、爆発的な「勇」をもたらす。
この時「不動心」の脳波であるアルファ波やシータ波は、意識と無意識の「蓋」をリセットし、無意識に構築された「義」を奮い出させる。
ちょうど、パンチを出す前の柔軟な筋肉に似ている。最初から力を入れた筋肉からでは、強烈なパンチを出すことはできない。
優雅に力を抜いておくことで、いざという時、瞬時に高速パワーと化すことができるのだ。
「義」と「不動心」とはそういう作用をする、特別な構築関係である。
武士道は宗教ではない。
形而上に導かれるものではなく、自己の覚悟で「義」を構築し、その「義」を貫くための「不動心」を得るため、侍として人間形成をしていくものである。
キリスト教にイエスの存在があり、イスラム教にムハンマドの存在があり、仏教に釈迦、ユダヤ教にトーラの存在があるように、武士道には「義」があるのだ。
「今」とは、あなたの「今」でもあり、地求の裏側にいる人達や動物や、虫や植物や水、量子カ学的に空気や粒子も、全てが「今」に位置している。
そればかりか何万光年先に見える星も、存在としては同じ「今」という時空にあるのだ。
ビックバンの爆発は素粒子よりも小さな、またはそれ以下の物質の噴出で始まった。
その時、中性子とマイナス陽子等がぶつかり合い、石などの物質が生まれ、星などになり、地求には水や空気が発生し生物も生まれた。
他の星では空気や水もいらない生物がいるかも知れない。どこかに・・・。
その星も、そのいるかも知れない生物も、現在の私たちと共有する今に位置しているのだ。
たとえ宇宙に歪みがあろうと、今のあなたも、あの何万光年先の星も、すべてビックバンから発祥した、時空潮流の先端なのである。
石などの物質は半永久に宇宙に存在するが、我々生命体は個々に死ぬ。
もしかすると宇宙には、永久に死ない生物のようなものがいるかもしれないが、私達に与えられた時空、地求には、死なない生物はいないようである。
しかしそんな生物も継続をしながら、時空の最先端に位置し続ける。
ようするに生命は子孫への継続を果たし、半永久物質である石のように、流れる時空に位置し続けるのだ。
その中で、あらゆる生命は不思議な機能「本能」を持ち合わせている。
滅亡しないために、大切に育て育てられるための継続の機能だ。
潮流は私たち生命体に本能という感情を与えた。継続と感情は一体といえる。
生命体は子孫を愛しみ、言葉をしゃべれない虫や植物でさえ子孫を残す愛しさ、あるいは変化がある。
継続のない石は石を生まず、その変化は必要ない。
もしかすると創世からすれば、感情さえいらない強い物質ということになるかもしれない。
弱い物質である?生命体は、子が親を慕い、男女は愛し合う。
なぜ自分の子は命に代えても可愛いのだろうか。
潮流の存在を考えたことはあるだろうか。
先頭に位置する「今」とは、宇宙に果された創世からの意志「摂理」なのである。
なぜ普遍的無意識という群れ意識はあるのか。
共通的とも全体的とも言われる無意識である。
貴方が生まれ育った所には、独自の言語や習慣などが存在し、その地域の共通的な無意識が心に育っている。
例えば、高校野球などでは、地元を応援するし、ワールドカップでは自国を応援するであろう。
普遍的無意識は各宗教にも当てはまる。
人の深層心理に普遍的無意識がある以上、人類はあるー定の群れ生物なのだ。
そのように進化しなくてはならない、弱い生物といえる。
個人よりも家族、家族のために群れと、継続を守るために無意識に群れを固める生物なのだ。
文化を持ち社会的に守られる人間の心とは、実は弱さをカバーし継続を果たす真理であり、子孫や親を守りたいとう感情は、実は機能なのである。
民族には、優秀なる民族と、下等な民族があるというのは、普遍的無意識を乱さない、節理ある継続の人生のことである。
リベラル過ぎて自由を勘違いしたり、「らしさ」を取るという行為は、普遍的無意識を消したり、結果「摂理」への免疫を作れず、不良や犯罪を横行させ、生態系に変化をおよぼし、潮流を弱体化させるだけである。
無意識である氷山の海面下、最も下の位置には本能があり、その上に群れ意識である普遍的無意識が形成され、最上部に個人的無意識が位置している。
「義」は継続のための個人的無意識には入らず、普遍的無意識に構築される。
一般にはこれを社会的責任感とでもいうのだろうが、「義」は少し違う。
新訳武士道において「義」の頂点は、この潮流を継続する責任である。人間がつくる、人生をエンジョイするための社会とは異なる価値観なのだ。
弱い生物「人間」にとって、普遍的無意識の乱れは潮流を崩す行為である。
本来、人は人を殺すことも、その肉を食うこともできる。盗みも強姦も何でもできる。
社会は法と宗教でそれらを許さないだろう。
「義」は普遍的無意識の観点から、継続の潮流を乱すものとして、それらを許さないのだ。
私たちの人生が継続への摂理なら、生は継続するためのメモリーということになる。
継続を果たす死は充実するであろう。
群れというのが、個々の命を守るために生まれた、普遍的無意識であるとするなら、その実態は継続への力を得るために、本能から生まれた摂理である。
継続の本能感と、群れ意識を乱すことのない信念。「義」とはこの潮流を守ることが軸になる。
おのずと何が道なのかが解って来るであろう。
潮流を導き、継続を乱すものは何か。
人にとって普遍的無意識が、いかに大切なものかが、お解り頂けるだろう。
子供、親、兄弟、日本国、世界。
武士道が創世され開花した深層の奥、真理を求めて真陰流は現代に発進する。
「義」を興すための道場「興義館」は、単なる格闘技の道場ではない。
普遍的無意識を守る精神が、どんなに心を強くし、人間的にも形成されるか、この道場によってお解かり頂けるであろう。
真陰流は科学に裏打ちしたものを含め、武士道の精神的技法を現代によみがえらせている。
歴史は言うだろう。敗戦から空白化され荒廃した心の病を、三千年の足音と共に「復活しろ」と、先人達の見えない力が奮い立たせた精神術だと。
「義を見てなさざるは 勇なきなり」
武士道の代表的な言葉だ。
武士道にとって「義」は無くてはならないものである。
侍が潮流のために起こす行動「勇」は、「義」によって正しく構築された陰から発せられる。
「義」の魂が純粋に陰に構築された姿こそ、自然に「勇」が衝動するのだ。
かつて「義」に対しての精神的構図は、自からの腹を切ってまで貫徹されたものであった。
現代はグローバル化された秩序が広がり、自由が保証され、国体が一体となって、難を乗り切るという時代ではない。
民主主義という世界的基盤が、自由を保証している時代である。
自由でいたいという者に、義を強要してもはじまらない。
しかし我々は風紀としてそれらをリードする、潮流の覇者でなくてはならないのだ。
「勇」はそういう時に使われるものである。
行動は種類に分けられる。
まず静なる気で待機しておき、心に余裕を持つ。
よく間違われることに、キレることと、「勇」なる行動との違いがある。
キレるとは余裕の無くなった者が、訳もわからず起こすテストストロンの作用による怒りだ。
一方「勇」なる行動とは、潮流「義」を堅持するための、使命観から起る衝動である。
よく何でも怒る人がいる。わがままな人もいる。
それらは「義」から衝動する、怒りであろうはずはない。
侍の怒りは潮流を反れた行為に対してのものに生ずるものだ。
普段は礼儀正しく穏やかで、心に余裕を持つ侍の態度でいる。
余裕とは強さの表れであるからだ。
前にも述べたように全てが見える人に現れる脳波なのである。
侍は「義」を見た時に、直ちに衝動するのだ。
正しいテストストロンの発祥なくして、世の中はおさまらない。
精神武道の世界
掣圏真陰流 創師 佐山サトル
創造の瞬間、ビックバンの爆発から素粒子の時空は潮流となって、マイナス陽子と中性子がぶつかり、限りない物質が生まれ「今」がある。
現時空の全てであり、今もなおそのエネルギーは潮流となって流れ続けているのだ。
私達は永遠に物質として存在する石などではなく、生命といわれる物質の構成である。
個の命が絶えて粒子に帰る生命体は、継続という摂理を構成し「今」を通過しているのだ。
大きな潮流の「今」を生き続ける絶対的な「摂理」こそ、私たちの根底に構築される「力」である。
先人が進化の過程で、言葉を喋れるようになって約三十万年が経つという。
言葉は現ヒュマノイドの脳に1400億ものニューロン(神経細胞)を作り上げ、地球内動物との知的能力差を決定的なものにしてきた。
最大のハードを得た我々人間は、約8000年の経験から取得した社会と文化を背景に、現在の精神構造を構築したのだ。
動物は潮流継続の大部分を「本能」で行なうが、人間は複雑極まりない社会脳を持たなくては、生き残れなくなってしまったのである。
特殊な脳を得て全地球人口六十五億もの精神質量が交差する中、生き抜く力なくして継続はない。
そのため私達の意識は個人的なものや、家族的なものに止まらず、民族や宗教観にまで達し、現在の共通的潜在意識にまで高められてきたのである。
戦いと平和を繰り返しながらも、絶対に縮まらないこの摂理的「小潮流」観。
宇宙は膨張し続け、大きな潮流と小さな潮流が組み合わされた「今」を同一方向へ流れ続けている。
潮流継続を果たしていく我々の真の姿とは?またどう生きるべきなのか。
赤ん坊は自動的に母親のミルクを頬張り、親は母性本能で子を愛し、子は親を慕い絆が結ばれ、子孫継続のために社会を順応する力を持つ。
摂理は家族や親族から、友人、仲間、同じ地域に住む人々の共同体へと広がり、共通的無意識という社会を構成し潮流を生き抜くことになる。
国の体制が協力し合って摂理を果たすことであるとするなら、その体制を基本から堅持することこそ、我々に果された潮流への同一化であるはずだ。
愛や平和は必要不可欠である。しかし永劫の摂理を崩そうとする「今」という空間だけの愛や平和は、潮流にとって逆作用となってしまう。
人間の最大の敵は人間であるが、摂理にとっての真の敵は「弱体」である。知恵があるからこそ逆に、愛と平和だけでは生き残れない。
知恵があるからこそ、人間は動物以下の行動も取ってしまうのである。
生存の基準は複雑にからむルサマンチンの、魑魅魍魎たる社会を正そうとするよりも、摂理を絶やさないための、潮流への「力」なのだ。
「弱さ」とは潮流を妨げるもの。
愛でいえば浸かっていたいもの。
「強さ」とは潮流への自然心。
愛でいえば与えることである。
しかし何でも与え続けてしまうと、浸かる「弱さ」へ順応してしまう。
潮流の継続を示唆する愛こそが「強さ」なのである。
これを武士道では「仁」という。
「慈悲」や「寛容」も同じように働かなくてはならない。
複雑な社会を構築する人間であるからこそ「弱さ」が潮流の崩壊を招くのは、歴史が証明している。
一見「弱さ」には見えない、暴力や不良等の反道徳行為も、潮流の観念からすれば、流れの邪魔をするただの「弱体」の表れに過ぎない。
一時の快楽や荒廃に走り、摂理を垣間見ない諸刃の精神である。
現潮流を責任で生きる「個」としての「精神構築」から「強さ」は生まれる。
継続にとっての「強さ」とは精神性であり、物質が主体ではない。
潮流継続の精神基軸がお金などの物質的なものであった場合、摂理は「弱さ」へと荒廃し、未来はあろうはずもない。
知恵とは生存、愛とは継続、強さとは生存と継続を堅持するためのエネルギーなのだ。
「知・仁・勇」の精神である。
強さとは
思考のさらに背後にある思考といわれるのが、愛と恐怖の観念である。
愛を守るために恐怖に打ち勝つ姿は、潮流を生き抜くための「精神構築」、「強さ」から発せられる「勇気」だ。
あなたの「強さ」は「今」にかぎらず、未来永劫と一体化する行いなのである。
正なる規範を導きさえして、体制を堅持させる「個」としての「精神構築」が、知的動物に課せられた摂理なのだ。
武士道精神の代表的な言葉に、
「義を見てなさざるは勇なきなり」というものがあるが、逆の意味も広く持ち入れられていた。
「義」のないところに、「勇」を出してはならないという戒めである。
この姿こそが「精神構築」の基本である。
武士道の基軸とは、国体の堅持であった。
当時なら「藩」や「お家」である。サムライは命を賭け、藩を守り民百姓らの規範となり、当時の潮流を継続した。
勿論、鎌倉幕府政権下での御成敗式目あたりから、それまでの武勇だけを誇るサムライから、忠誠を誓わせるための様相を呈してきたが、命を賭けてまで規範を全うする文化が独自に育てられ、史上最高とまで言われる「武士道」という精神文化が築かれたのだ。
それは我々の潜在意識に現在も刻まれている。
現代においての武士道も、潮流を継続させるための、規範の導きを「勇」と同一化させる「強さ」への意志でなくてはならない。
封建制や男尊女卑など、現代にそぐわないものは姿を変えていくのは当然のことである。
武士道の継続とは制度ではなく、精神性を基軸に流れて行くものであるからだ。
武士道精神の「真の強さ」を導く「精神構築」は、潜在意識に絶対的なものとしての存在「義」である。
「義」とは、直接的な正義そのものでもないし、義理などでもない。
この七百年ものあまりに育てられた、正なる一点の崇高な潜在意識である。
武士道は宗教ではない。神の存在に橋渡しをする人がいるように、「義」が、ある正なる存在に「忠」を貫徹する「精神構築」であるからだ。
正なる存在が潮流であることはいうまでもない。
人間は本能のみに動かず、意志を持つ生きものである。潮流を活かすも殺すこともできる。
武士道の教えとは、人を活かす活人であり、潮流を運ぶための「強さ」なのだ。
あたかも一神教の教えで、小さな時から毎週教会へ連れて行かれ、神への信心の元、導きが生まれ、挨拶の仕方から、道徳、正義、態度、人を助けること、守ること、愛国心等を神父や伝導士に徹底的に教え込まれる姿がある。
しかしながら新渡戸稲造の「武士道」によれば、騎士道精神は騎士が存在しなくなった後、キリスト教に回収され、存続したという。
したがって、こうした態度は騎士道精神の発露であろう。
一方、我が国の武士道精神が宗教に回収されなかった為であると新渡戸稲造氏は言う。
困った人がいるときに助けることや、あらゆる宗教が正す、人の嫌がることをしないというゴールド・ルール、正義、社会ルールなどの規範の堅持は、やがて彼らの潜在意識に入り込み、社会秩序が構成され、正義となって「強さ」が生まれるのである。
潮流継続の「義」なる力であり、その流れにそっての自由・平等・博愛の啓蒙思想は、潤滑油となるだろう。
しかし、何もそれらが構築されてない者が、愛と称し、自由・平等・博愛を唱えれば、何でも自由、何でも平等と履き違いをしてしまい、潮流を衰退させるだけの「弱さ」となってしまうのだ。
武士道は「神道」「仏教」「儒教思想」「朱子学思想」等から、同じように社会規範が育っていった。しかも封建制からの、命をも賭けて生まれたものである。
神の存在する宗教ではないが、自己と潮流とが精神を一体化させる「精神道」なのだ。
「強さ」は「表」の姿ではなく「内面」から本来の体制を構築することで生まれる。
武士道の作法は内面にある。
「恥」や「遠慮」、「出しゃばらず礼儀正しい姿」
すべては「真の力」を得るために、秘められた意志を構築させ、表に出すための法則なのだ。
どんなに強い者も、どんなに美しい女性も、内面から出てくる「強さ」や「美」にはかなわない。
精神世界とは継続への力を要す個の構築であり、潮流が私達に与えた能力である。
「強い」と念じれば強くなり、「美しい」と念じれば美しくなるものでもない。
そこには精神の法則があり、真陰流はそれに則り構成した「術」を持つ。
武士道は命をかけた剣術の面からも、内面性の見地で造られて来た。
古来、物部氏の時代から「魂」信仰は存在し、「魂振り」「魂鎮め」の儀式が行われていたという土壌がある。
室町末期に愛洲移香斎によって「影流」が創始され、精神性武道が重んじられていく。
移香斎は宮崎の洞窟にて修業し、蜘蛛が動く影を見て剣の極意を得た。
代を経て柳生但馬上により新影流が造られ、活人剣として広く武士の思想となっていく。
真陰流は武士道思想を根底から見つめ直し、「真の強さ」を追求した「精神道」である。
真の「強さ」とは暴力や意思そのものではない。潮流を未来永劫に流し続ける個としての摂理を、内側から構築して行くものだ。
「くつろぎ」「安らぎ」「安定」「無」「不退」「超意識」を精神に植え付け、自己の器を造るもので、武士道のDNAを採取し、その精神基軸を現代に蘇らせた、21世紀の潮流を継続する精神の姿なのだ。
その人間像は規範心を秘め、余裕に満ち溢れ、「強さ」のための本当の愛を知っているものである。
精神道 真陰流
真陰流理論 精神の法則
自己とは器(うつわ)である。
真陰流の「陰」の旁(つくり)は「今(こん)」と「云(うん)」とに従う。(白川静氏による)
「云」は雲気。ある霊的な力を象徴するもので、現世の我々にとっては、しまわれた「気」潜在意識のことである。
「今(こん)」は壺形に用いる「蓋(ふた)」の意。
「陰」とは雲気を蓋で密閉するということである。
「今(こん)」である蓋の「表」は顕在意識の世界であり、内側は密封された潜在意識である。
真陰にとって、その蓋は「気」の通気性があるもので、顕在意識と潜在意識が通過し合う、「信条」や「観念」で出来た特殊な「ろ過装置」である。
表の情報を「信条」によって「ろ過」し、壺の中に「私情報」の「潜在意識」として蓄え、蓄えられた「潜在意識」は、外の情報を受け、蓋によって振り分け選び出されて行動となる。
もし蓋が無ければ、情報はどんどん入り込み、外からの入力が「疑い」も「信じる」ことも「洗練」もされることなく蓄まって行き、そのまま表にでてしまう幼年期の子供のようになってしまう。
顕在意識と潜在意識を分ける「信条」の「蓋」こそ、自己構築の要であるのだ。
自己の潜在意識を創造し、その雲気をまた「蓋」により観念として意識に上げていくのである。
意識する自身の現在は「信条」や「観念」で蓄えられた大きな雲気の、わずかな表れでしかない。
雲気が意識に上がってくる時に、観念という感情を作りだし、自己ではコントロールできない波動となって影響をさせる。
真の強さを構築する精神の波動は、
「振れ」(精神の不安定や恐怖の波形)・「無」(安定した状態)・「響き」(高揚心の波形)
から、「超意識」(完全に集中し乗り切った波形)へ上がっていく。
例えばAという敵が目の前にいたとして、三つのパターンを考えてみよう。
「蓋」という「ろ過装置」が構築されてなく、過去の情報や自分の体験から敵へのイメージが、怖いという観念で潜在意識に運ばれていた場合。
その雲気は再び「蓋」を通し、顕在意識に運ばれ「振れ」を与えてしまう。
怖いという観念が雲気に運ばれようとしても、「蓋」という「ろ過装置」が「無」に構築されていれば、「振れ」も「響き」もない「強さ」への第一思考となる。
真の強さとは「響き」を得る精神の高揚のことではない。勝手にそうなってしまうものである。
蓋と雲気を構築した全体像から意識に表れる自己の器「陰」なのだ。
観念を構成する「蓋」には、いくつもの層で対応できるモードがあり、敵に対しての戦闘モードは「倒す」集中での法則において精神を統一される。
精神統一は普段の心的訓練で「無」に入ることを「蓋」にリセットする法則で導かれて行く。
リセットとは「蓋」の「ろ過装置」に溜まるストレスなどを、ニュートラルにすることで取り除き、健全に導くことである。
「無」は潜在意識に直接入り雲気の構成を植えつけていく最初の段階であるのだ。
精神の波形は通常「常波」であるが、「振れ」をみせたとき「退波」へ移行し、やがて「窮波」へと追いやられ、「蓋」は固まってしまう。
反対に「響き」は強さへの波形を表し、「乗波」となって意欲に乗って行く。
通常「退波」を出した場合、いきなり「乗波」へは移行できない。
「無波」が表れ「乗波」「超乗波」へ移行するのだ。
真陰流は「超乗波」へ導く「精神道」である。
それは法則によって「蓋」の構築と精神統一で成せるのだ。
「真」は「陰」の完成された「力」で表にでる姿の意。
「陰」は潜在意識と潜在意識を構築する意。
「流」は堅持する潮流の意。
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義
「義」は漠然と正義という解釈ではなく、自己の絶対的な精神の支柱です。個のためのものではない、ある摂理に向かって衝動する、侍にとって最も軸となる脳神経なのです。
掣圏真陰流は新訳武士道として真の「強さ」を導くために、武士道精神の復古と、最新の心理学(精神分析学・催眠・大脳生理学)や、世界観を分析し、日本人が失った誇りや規範心を構築するための術です。
真陰流を学ぶ上で「義」は大変重要な部分ですので、しっかりと理解してもらえれば幸いです。
単に「無」とは、何も煩悩が無く、緊張や驚きという感覚をも消し去るものです。
心地よく優雅な状態でそれが行われれば、精神的に何も無いロボトミーのようで、感情や衝動も起こりません。煩悩や障害に対面した時に、何事も無いように楽な状態にはなれます。しかし侍の「儀」に向かうとき、自我があって意思も無ければ、物事に対処する事は出来ません。
「不動心」とは、強力な煩悩に対しても、心地よく優雅な状態で接することの出来る「強さ」のことを言います。自我という意識があって、煩悩から「不動心」になるには、結果が見えていなくてはなりません。煩悩を拒絶するための「不動心」だけでは、油断につながることになるからです。全てが予知、あるいは見えていれば「不動」の感覚でいられます。
「義」は全てを見せてくれる存在です。
「不動心」は見えている感覚の「強さ」なのです。
「義」と「不動心」から「強さ」は生まれます。この三者は一体です。
何事にもブレない優雅な「不動心」は、「義」を持つ人格者から生まれ、一旦「義」ある時は、爆発的な「勇」をもたらします。この時「不動心」であるアルファ波やシータ波は、意識と無意識の「蓋」をリセットし、無意識に構築された「義」を奮い出させるからです。
「義」とはそう言う作用をする特別な構築です。
武士道は宗教ではありません。形而上に導かれるものではないからです。
自己の覚悟で「義」を構築し、その「義」を貫くための「不動心」を得るため、人間形成をしていくものとお考えください。キリスト教にイエスの存在があり、イスラム教にムハンマドの存在があり、仏教に釈迦、ユダヤ教にトーラの存在があるように、武士道には「義」があります。
「今」とは、あなたの「今」でもあり、地求の裏側にいる人達や動物や、虫や植物や水、量子カ学的に空気や粒子も、全てが「今」に位置しています。そればかりか何万光年先に見える星も、存在としては同じ「今」という時空にあります。
ビックバンの爆発は素粒子よりも小さな、またはそれ以下の物質の噴出で始まったとされています。その時、中性子とマイナス陽子等がぶつかり合い、石などの物質が生まれ、星などになり、地求には水や空気が発生し、生物も生まれました。
他の星では空気や水もいらない生物がいるかも知れませんね。どこかに・・・。
その星も、そのいるかも知れない生物も、現在の私たちと共有する今に位置しています。
たとえ宇宙に歪みがあろうと、今のあなたも、あの何万光年先の星も、すべてビックバンから発祥した、時空潮流の先端なのです。
その中で石などの物質は半永久に宇宙に存在しますが、我々生命体は個々に死にます。もしかすると宇宙には、永久に死ない生物のようなものがいるかもしれませんが、私達に与えられた時空、地球には、死なない生物はいないようです。しかしそんな生物も継続をしながら、時空の最先端に位置し続けます。ようするに生命は子孫への継続を果たし、半永久物質である石のように、流れる時空に位置し続けるのです。
あらゆる生命は不思議な機能「本能」を持ち合わせています。
大切に育て育てられるための継続の機能です。
潮流は私たち生命体に本能という感情を与えました。継続と感情は一体といえるのです。生命体は子孫を愛しみ、言葉をしゃべれない虫や植物でさえ子孫を残す愛しさ、或は変化があるはずです。継続のない石は石を生みませんから、変化はいりません。
もしかすると創世からすれば、感情さえいらない強い物質ということになりますね。
弱い物質である?生命体は、子が親を慕い、男女は愛し合います。
なぜ自分の子は命に代えても可愛いのでしょう。
潮流の存在を考えたことはありますか。
先頭に位置する「今」とは、宇宙に果された創世からの意志「摂理」なのです。
なぜ普遍的無意識という群れ意識はあるのでしょう。
共通的とも全体的とも言われる無意識です。貴方が生まれ育った所には、独自の言語や習慣などが存在し、その地域の共通的な無意識が心に育ちます。
例えば、高校野球などでは、地元を応援するし、ワールドカップでは自国を応援するでしょう。
普遍的無意識は各宗教にも当てはまります。
人の深層心理に普遍的無意識がある以上、人類はあるー定の群れ生物なのです。そのように進化しなくてはならない、弱い生物だからです。個人よりも家族、家族のために群れと、継続を守るために、無意識に群れを固める生物なのです。
文化を持ち社会的に守られる人間の心とは、実は弱さをカバーし継続を果たす真理であり、子孫や親を守りたいとう感情は、実はそのための機能なのです。
普遍的無意識を乱さない、摂理ある人生の工ンジョイとは素晴らしいものです。
しかしリベラル過ぎて自由を勘違いしたり、「らしさ」を取るという行為は、普遍的無意識を消したり、結果「摂理」への免疫を作れず、不良や犯罪を横行させ、生態系に変化をおよぼし、潮流を弱体化させるだけです。
無意識である氷山の海面下、最も下の位置には本能があり、その上に群れ意識である普遍的無意識が形成され、最上部に個人的無意識が位置します。
「義」は継続のための個人的無意識には入らず、普遍的無意識に構築されます。
一般にはこれを社会的責任感とでもいうのでしょうが、「義」は少し違います。新訳武士道において「義」の頂点は、この潮流を継続する責任であり、人間がつくる社会とは異なる価値観だからです。弱い生物「人間」にとって、普遍的無意識の乱れは潮流を崩す行為です。
人は人を殺すことも、その肉を食うこともできます。盗みも強姦も何でもできるのです。
社会は法と宗教でそれらを許さないでしょう。
「義」は普遍的無意識の観点から、継続の潮流を乱すものとして、それらを許さないのです。
私たちの人生が継続への摂理なら、生は継続するためのメモリーということになります。
継続を果たす死は充実するでしょう。
群れとは個々の命を守るために生まれた、普遍的無意識であるとするなら、その実態は継続への力を得るために、本能から生まれた摂理なのです。
継続の本能感と、群れ意識を乱すことのない信念。「義」とはこの潮流を守ることが軸になります。おのずと何が道なのかが解って来ます。
潮流を導き、継続を乱すものは何か。
人にとって普遍的無意識が、いかに大切なものかが、お解り頂けるでしょう。
子供、親、兄弟、日本国、世界。
武士道が創世され開花した深層の奥、真理を求めて真陰流は現代に発進します。近々都心にオープンする「義」を興すための道場「興義館」は単なる格闘技の道場ではありません。普遍的無意識を守る精神がどんなに心を強くし、人間的にも形成されるか、お解かり頂けるでしょう。
真陰流は科学に裏打ちしたものを含め、武士道の精神的技法を現代によみがえらせます。
歴史は言うでしょう。敗戦から空白化され荒廃した心の病を、三千年の足音と共に「復活しろ」と、先人達の見えない力が奮い立たせた精神術だと。
尚、「興義館」という名は、今、DNAの採取に南極に四ヶ月の冒険を行っている最中の、小方が命名したものです。頑張れ小方!
掣圏真陰流 創師 「興義館」 佐山 聡
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明けましておめでとうございます。
本年も私は武士道を一つの現代武道にまとめ、日本復活の要にする炎の魂となります。
礼儀作法・立居振舞・剣術(居合)・禅(催眠)・格闘術(掣圏・総合・キック)・武器術・真歴史教科・思想等を行ない、明日のサムライを真剣に育てる機関を発進いたします。
歴史上初の武士道道場を作リ、より強力に新訳武士道の完成を近づけてまいりますので、皆様におかれましては、ご理解、ご支援の程、よろしくお願い申し上げます。
かねてより押し進めている武士道についてですが、実は過去において、定義化されたことはありません。明治になり、列強に対抗する精神支柱として、待の時代の良き精神を取り入れることが、最も有効な手段として必用なものでした。
実祭に各藩で培われた精神性は、今を生きる私などには到底及びもしないものです。
ただ日本精神復活をかけて、世界グローバリズムにも恥じない心根を失わないよう、節に行動するのみです。
武士道の「道」とは侍の時代、当時であれば藩やお家を、命をかけても守ることにありました。
そのため、自己を磨くために武術や弓術などの術を行ない、朱子学等を学び、文化をも守りました。
270年前、本居宣長が歌った。
「敷島の大和ごころを人とはば 朝日ににほふ 山さくらばな」のごとく、
敷島日本には独特の精神文化があり、それが七百年の歳月をかけた、我が国の精神的基盤である、待の規範であったことは言うまでもありません。
これに驚嘆したのは、明治の時代、文化的に進んでいた欧米の人々です。こんな文化が極東の端に育っていたことに驚いたのです。礼儀正しく街もきれい。これまでに接してきた国々の人とはあきらかに違うし、きちんとした文化があると、尊敬さえされていたのです。神道や仏教や朱子学などの思想から、独特の封建制における規範が育ち、明治に民主国家となっても、その基盤は揺るぎませんでした。
戦後40年ぐらいまでは、かろうじて守られたと言われています。しかしそれからは落ちるー方。
今では精神的基盤を失った国が、どう進むか見守られています。
ラムズフェルドは将来なくなる国の、四番目に日本を上げているくらいです。早く気づいてほしいのです。あきらかにこの国の若者は、世界の国々の若者としゃべる次元が違い過ぎます。
日本で精神的な話題を出すと「何を言っているの」と言われるのがオチですが、先進国ではその話題が出来ないほうが、嫌悪寒を抱かれてしまいます。
この辺の教育が日本は全く閉ざされ、まるで奴隷にされ、自立したくない教育を受けた者の精神状態と、同レベルになっています。
もう一度言います。自立できない奴隷にされた精神体形が、今の日本の精神状態になってしまっていると。
裕福感や幸福感と、自立心とか責任感などの、人や国を構築する「精神性」は違うのです。
お金が神で規範は二の次。
裕福だが奴隷のように、国家として自立する気も起こらない精神状態。
世界はこれがまったく逆なのです。
そもそも宗教心がない事自体、世界では疑われます。えてして多くの日本人は、宗教は悪い事。宗教があるから戦争があるのだと、どうどうと言い放ちます。それが奴隷的精神を植えつけられた結果だとも気づかずに。(私が言っている宗教は、新興宗教のことではありません。人間形成に影響するもののことを言います)
対して世界の言い分は、「どうやって、あなた方は人間形成されたのですか」ということです。
宗教間の問題は大変ですが、彼達にとって人間形成の宗教を持たない者ほど、異宗教者よりも嫌がられるのです。
世界が日本を認めているのは、明治から昭和にかけて、それまで五百年の白人優位社会を、ただ一国がぶち破ったからです。
当時の差別社会の中、あの欧米と堂々とわたり合ったからです。
白人社会にとっては、文化国日本が、誠実で信用を共有できる人間性だと認めたからです。
イギリスの教科書には、第二時世界大戦、日本は戦いに巻き込まれ、日本が戦ったせいで、世界の植民地が解放されるきっかけをつくったと書いてあります。
戦後日本の歴史教育は違います。
戦争は勝った方が歴史を造るのは当然です。そんな茶番を利用したのも、当時、戦勝国側についた反体制側、或は体制側であっても協力した日本人です。日本が一方的に悪い戦争をしたなどという歴史観は、戦勝国とそれに協力した彼らによって捏造されたことが、今、色々な資料で明らかになってきました。
戦後間もない、昭和20年12月8日から十日間にわたって、全新聞の一面に掲載された「太平洋戦争史」や、翌9日から一年間流し続けたラジオ番組「真相はかうだ」「真相箱」「続・真相箱」などの宣伝作戦や、協力者たちの教育で、当時純粋な日本人は「そうだったのか」という人々に染まっていったのです。ラジオは効果音とともに、学校の授業にまで放送されました。
その教育を受けた純粋な子供達が、どんなアレルギー反応を起こし、どんな国家造りをするでしょうか?
とどめは「東京裁判」です。11カ国の判事のうち、11カ国が連合国側。結果は皆さんご存じ通りです。そればかりではありません。当時各地で行われたBC級戦犯と呼ばれた、裁判という名をかりた捕虜虐殺は、1161名にも及びました。
すべて負けた側が悪にされて。
しかも自国民にも宣伝戦略され。
それが戦後の精神構造に向かわせます。
近年「歴史の真実」などの本が出版されベストセラーになり、多くの方が真実を認識してまいりました。
日本人として歴史の真実はしっかりと学びましょう。そして読むだけではなく、まともな人間として真の強さを持ちましょう。
私は外国の人との話し合いで「あなたの宗教は?」と聞かれると、決まって「武士道です」と答えています。
中には「え!武士道って宗教なの?」と聞き返して来る人もいますが、
「宗教ではありませんが、大変厳しいルールとマナーの精神哲学です」と言うだけで納得してくれるのです。
「裕福感」だけで暮らしても将来はあるはずもありません。武士道道場ではその教育もします。
生きることへの何が真実か、はっきり答えを教える所でもあります。
格闘技において技術がどうのこうのというものは、私にとっては、とっくに過ぎ去っております。
確かにこの武士道道場では、格段に深い精神性と技術がー体化し、プロ部門ではとてつもない選手が育つでしょう。
しかしその者は、町人拝金主義には溺れず、「義」を通す将来の大者のー人になるでしょう。他のサムライと同様に。
私にとってはその選手も、サムライのー人でしかありません。
ご存じの通り十年間以上、総合格闘技の創始創立指導者としての立場であり、皆さんにとって、その指導法が未熟であったとは思えないでしょうが、行き詰まる所、精神面を育成しなくては、どんな強い選手を育て上げても意味のない事だと、痛感するに至っていました。
当時シューティングを修斗(戦いを修めるもの)と改名したのもそのためです。
古いファンなら覚えているでしょうが、私の目標システムは日本の大相撲でした。
精神性を伴う制度においての格闘技を造りたかったのです。
私にとって町人拝金性格闘精神はムシズが走るものでした。そもそもの道が違うのです。
未熟な私が徹底追及していたものは、技術や体力であり、健全なる肉体に健全なる精神が宿るのみで、良いのだと思っていました。
しかし自分を売る事だけに全カを傾ける若者の精神。
何がこの者達を造っているのか?
その疑問を感じていた私に一番ショックなことは、外人選手の方が礼儀が出来ていて、精神力も強かったという点です。
いったい何が日本人に作用させているのか?
日本に住むまともな外人が最近よく言うのは、文化的な違いは差し引いて、モラル的なことを強く指摘してきます。
あるアメリ力の友人は、「日本は、あと2〜30年しか持たないよ」とまで言います。
二十年前の日本と、まるで違うというのです。
「この若者達が親になって子供を育てるんだよ」と、信じられない!というポーズをして。
対して日本の大人は、これまた平和ボケして、親になれば自然に解かり、変わると言います。
もうそんな次元ではないことすら、認識できないのです。
導きとは文化であり、人間の基本をそらさないことです。
格闘技に精神性をのせなくては、甘い金の言葉にホイホイのっていき。信念なく、強い者には弱い姿となり、社会性を持たない分、まるで一般人よりも弱い精神性となるだけです。
みなさんが見ているのが、いかにも強よそうな体と態度をしているくせに、リングを降りると全く弱い精神だとしたら、ただの力ボチャに過ぎません。
リング上と一般社会は違うのです。
私は格闘技を造っていたのではなく、個人主義の利用に走らされていたのです。当全、全体像は町人拝金性に向かいます。
格闘技だけではなく、精神性を造る体制をいち早く造らなくては、この国がダメになると真剣に思い始めました。
私もあなたもそうかもしれません。もしこの国が人間にとって、一番大切な何かを無くしているとするなら・・・大問顛です。
精神に対する私の挑戦の始まりです。それからは皆さんもご存じの通り、徹底的にやらせていただきました。精神分析学から歴史の真実、宗教、武士道や居合、催眠にいたるまで。
真陰流の理論はチェアウォーカーWaWaWaに連載していますが、ここでは解りやすく書いてみましょう。
基本は、弱さ強さとは何かということです。
強さは多種多様存在します。そのほとんどが見せ掛けだけの、心理的カバー作用における強さに過ぎません。
強さとは深層心理の底、すなわち本能に築かれた衝動に表れるというのが基本です。
催眠を行なっているとよく解かりますが、人間の深層心理には第ー思考というものがあります。
そもそも精神とは、氷山のようなものと言われています。海面に出ているのは全体の10パーセントに過ぎず、残りの90パーセントは海の中にあります。
今あなたがこの文章を読んでいる、意識の世界が、毎上部分であり、実際あなたが過去に培って来た経験や感情は、あなたの海の下の部分90パーセントに備蓄されているのです。
どう備蓄されているかによって衝動は変わります。
例えば、無意識の世界は、あなたの部屋のようなものです。夜あなたが帰宅した時、突然停電になったとしましょう。勝手知ったるあなたの部屋は、暗闇になってもどこに何があるかぐらいは分かります。よく使用しているものであればなおさら・・・。
もし路上で困っている人がいたら助ける。或は、お金が落ちていたら名前も告げず交番へ届けるなどが、部屋のどこにあるか分かれば、関連した何かがあったとき、あなたはその場所をいち早く察知し、衝動を起こします。
もしそれらが部屋に無ければ、ただ暗い部屋をさまようだけでしょう。
なお意識と無意識の間にはフィルターがあります。六才くらいまではこのフィルターは存在せず、常に無意識に入り自身を形成していきます。この時期に形成されるのが「第一思考」です。
私が催眠を行うことを、実験段階から知っている知人に紹介され、精神的に病んだ人がよく来ますが、その人達の多くが、この時期に形成された第ー思考の影響です。
精神的に病むには原因があります。原因のない先天的な人は催眠ではだめです。またアドレナリン等で視床下部の海馬まで溶かされたような、物理的なところまで行った人も、薬などの治療が必要です。あくまでも催眠は無意識に働きかける、暗示によって作用させるものだからです。
近年MRIの開発で、催眠がどういう作用を脳でするのかが解ってきました。
催眠状態にいる被催眠者をMRIで見てみると、右脳の方へ電極が集中するのです。
右脳はイメージの分野です。要するに人間の無意識もイメージの世界なのです。
そのイメージに造られた感情が、上から入ってきた実写に照合され、自分ではコントロール出来ない自立神経に連動されます。
催眠の特徴は自立神経を整えることと、無意識の奥まで自我が入って行くことです。
普通、催眠は精神障害などの治療に使われるものですが、逆の発想をしてみれば、精神の強化や、暗示性の深さを理用し、スピード・パワー・技のイメ一ジ等にも使われます。
衝動は根底の精神から構築すれば完全なものになります。無意識の根底とは本能です。その根底から充実させるものが真陰流なのです。
「陰」とは、今=壺などの蓋 云=霊などの雲気 を表し、蓋をされた壺が無意識部であり、その壺の中にある雲気が無意識を構築している姿です。
蓋の外は意識と外界になります。
この場合、蓋の存在は大変重用であり、意識と無意識を分けるだけではなく、意識と無意識を交互に繋げるフィルターの役目もします。
先に書いたように、人間は六才頃までこの蓋(フィルター)が無く、どんどん情報を雲気として無意識に構築させます。第ー思考の源です。
また十五才ぐらいまで、この蓋をせっせと造り結けます。
外界から入って来る情報は「信条」という蓋フィルターとなり、下の雲気を形づけ、その雲気は「観念」となって蓋を通過し、外界へと出て行きます。
真陰流はあなたの雲気を構築し、強者となって外界へ導きます。
真陰流の最大の頂点は「義」ですが、一言に言っても理解できないでしょう。
次回は「義」について書きます。
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