掣圏真陰流 興義館総監 佐山サトル本人からの投稿メッセージです。
2007200620052004

2006.12.04
人生には様々な道のりがある。
障害へ向かって、立ち向かわなければならないことも、様々な出来事を乗り切らなくてはならない時もある。
恋愛、お金、商売、将来の事、ずっと安泰な道が続くというのか。
単なる格闘技という場面に勝つ鍛錬が、人生の強さにつながるものであろうか。
掣圏真陰流は厳しい鍛錬によって、それを習得するものではない。
精神術で得るという方が正しいのだ。
最も厳しい道場で恐れられているようだが、実際には最も優しく技術重視の内容に、我々も笑っている。
それもこれも士禅という精神術があるからだ。
強さとは何か。
この定義を紐解いたときに、格闘技の強い選手が、真に強い者とは限らない。
格闘技の先生の立場で物言うので、あえて格闘技を例に出す。
人生には山あり谷ありというが、決して道無き道ではない。
道という導きがあるからこそ、我々は社会を生きることができるのだ。
道という形の基本は、先人が何千年もかけて、作ってくれたものである。
どう歩むかは個人の進む方向だが、道には人が歩けるとか、車が通れるということだ。
殺してはならない。盗んではならない。犯してはならない。助けなくてならない。人の嫌がることをしない。
私たちが社会を歩む、無意識に構築された基本である。
モラルという、山や谷を切り開いてくれた先人の道ではあるが、残念ながら性善説を行く私達の道は、アスファルトのような平穏なものではない。
砂利や石や、水溜りもあるだろう。
その道を行くとき、何の人格に乗って行くかは貴方次第だ。
悪路を免疫のない乳母車に乗って走り続ければ、すぐに壊れてバラバラになるだろう。
まっすぐ走ろうとしても、車輪は傾き、その道を走るどころか、はみ出したりもする。
催眠も含めた精神医療は、その壊れた乳母車を直して、もう一度、道に送り出すことが主な目的だ。
近代ではフロイトやユングや、メスメル、シャルコー、エリクソン等が素晴らしい業績を残してきた。
だが掣圏真陰流は病気治療が主な目的ではない。
強さの構造を造るものだ。
格闘技のために精神の道を追求し始めたとき、精神そのものを捜し出すのは、医療の分野しかなかった。
掣圏真陰流の主の目的は、その道を走る強い車を作るものであり、精神の構造から分からなくては何も設計できなかったからだ。
強者の人格を形成することは、生理学的に不動心と活力を養うことである。
強さとは、どんな悪路にも難なく走れる、タイヤやバネやショックアブソーバー等を備え、確実な乗り物となることだ。
どんな路面の響も拾わず、スムーズに走るのは、私たちの不動心にあたる。
明鏡止水の境地である。
精神的な活力はエンジンかといえば、それは違う。
栄養とか筋肉とか睡眠の体力的な活力であり、
精神的な活力とは、雨の日でも強力なワイパーでクリアーにし、自信を持ってアクセルを踏み込む姿なのだ。
活力とはやる気や、みなぎる力であり、クリアーになったフロントガラスに映る現実は、たとえ仮想現実であろうと、確信的な未来映像となる。
自己啓発の本を読み、長たらしい前置きに期待し、結局言っていることは「イメージをもちなさい」ということだった経験があるだろう。
イメージトレーニングという言葉も聞いたことがあるかもしれない。
どんなに納得し、意識の世界からイメージしても、確信には勝てないものだ。
ここでいう確信とは、イメージをはっきりと夢のように感情に残し、真の場面にフィードバックすることである。
完全に見えたフロントガラスの向こうが、仮想現実のイメージの世界であっても、現実を大きくずれていれば、大きな事故を起こす。
無意識を真なる確信で構成するのが、掣圏真陰流の精神術であり、イメージに動かされるのと、イメージ力によって無意識に真を造るのとは、大いに違うのである。
道のない所に道があるとか、対向車がいても、いないと感じることは、意味の無いことであり、
ここが催眠の誤解である。
強さとは正しいイメージにのっとり進められるのだ。
悪路にも安定し、しっかりとした視野と反応ができ、目的地へ向かって迷子にもならずに進める、イメージ力なのである。
催眠が及ぼす影響を懸念し、変な妄想を描いている者の多いこの日本だが、私が行っているものは2段階に事が違う。
催眠とは本物であり、それは強いイメージの世界で、同時に安定の副交感神経を上げるもの。
その中で私が行っている武道精神術は、治療ではなく構築のためのものである。
この目的が「士禅」なのだ。
禅といえば、厳しい修業と思われがちだが、興義館で「士禅」を受けた人は、その違いに感激するだろう。
禅というより「SHI−ZEN」というイメージである。
何を構築しているのか。
一神教などで導きを持った人々の道は、白い大理石を敷いたようなものだ。
もし性善説の私たちが誓約説をまねして、悪路を乳母車や高級車で走るとどうなるだろうか。
武士道という高いレベルの高速道路を作り、それに相応しい車を作ることが、これからの私に課された武道開発なのである。
そこには覚悟ではなく、無意識への確信しかない。
掣圏真陰流は、最終段階へ大きく踏み出している。
催眠?佐山は何をやっているの?
勝手に御思いください。
先日、ある病院から電話があった。
記憶障害の患者をみてほしいというのだ。
まれな症例なので、催眠を使ってみたいという。
興義館の催眠ルームで行いたかったが、研究のモデルとなるということで、先方の病院へ出向かさせられた。
大きな病院である。
担当医の部屋へ通され、その内容を聞くと、ゲイの患者で二人だという。
二人ともに記憶障害で、またカップルだというのだ。
心中をくわだて、二人とも助かったが、過去の記憶が双方とも無くなったという事である。
病院では可愛そうなので、毎日一時間は二人を面会させ、手をつながせて敷地内の公園を散歩させているという内容だった。
私は病室に通され、手をつないだ二人を見て驚愕した。
カタブツ氏とOOHではないか!
私は自己暗示で不動心に戻った。
「先生。この二人はどうしてここに?」
「飛び降りでしてね。二人で抱き合って見つかったんですよ」
確かに二人はもつれて落ちて行ったが、その後の消息がわからなかった。
色々考えると、このままにしておいた方がいいかなとも考えたが、どうやってあの17階から助かったのかを知りたくて、退行催眠をかける衝動が走った。
二人同時の催眠で、窓から落ちるところを退行暗示させたのだ。
「ギャー!離せバカやろう。おまえがつかまってたら重みで、吸盤が外れるだろう」
「そんなこと言ったって、離したら私はここから落ちるじゃないですか」
あの時カタブツ氏は吸盤で17階まで昇ってきていたのだ。
「ああ・・・吸盤の力が落ちて来た。離せ離せ!」
「いやですう!」
「ああ・・・下がる!下がってるぞ!」
二人の重みで吸盤が、壁にくっついたまま徐々に下がりはじめたようだ。
「ワー・・・!」
そのスピードが早くなり始めたようで、二人は恐怖で抱き合い始めた。
「ギャー!」
地面の手前で完全に吸盤が外れ、ホテルの植えこみの芝生の上に落ちた。
二人は椅子から倒れこみ、床で抱き合ったまま意識を失ったのだ。
「先生こういうことです・・・・」
担当医や周りの看護士も目がテンになっていた。
「私はちょっとこのあと用事がありますので、失礼します」
記憶の戻った二人と私の関係がバレるのと、なによりこの光景が気持ち悪かったので、おいとました。


INDEX

■2006.12.04 人生には様々な道のりがある。…

■2006.11.20 武道は心が重要である。格闘技も心が重要だ。…

■2006.11.07 日本は戦争を放棄した国ですから、…


■2006.11.01 私の道 掣圏真陰流 精神世界

■2006.10.30 この一週間は凄かった。私は歴史に残す精神武道を造る覚悟だ。


■2006.10.23 真の私を読め  私は理論派だという。…


■2006.10.18 戦闘生理学としての掣圏真陰流


■2006.10.14 本日ある雑誌が取材に来た。…


■2006.10.06 いよいよ大きな対戦が決まりそうだ。…


■2006.09.30 大変順調に行っている。本物の強さの構築のため、…

■2006.08.07 新道場「興義館」は25日のオープンに向け、…

■2006.08.01 興義館 入会案内書

■2006.06.20 掣圏真陰流 道場 7月中旬オープン

■2006.06.16 スーパー禅(仮称)

■2006.06.06 拝啓 初夏の候、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。…

■2006.03.20 心得るべし事

■2006.03.09 義

■2006.03.02 精神武道の世界…創造の瞬間、ビックバンの爆発から…

■2006.01.09 義

■2006.01.04 明けましておめでとうございます。…



2006.11.20
武道は心が重要である。
格闘技も心が重要だ。
武道と格闘技の心とは、何が違うのか?
スポーツとして行うのが格闘技で、伝統を継承するのが武道?
ルールがあってフェアープレイで闘うのが格闘技で、礼儀作法や型を重視するのが武道?
現代武道とはどうあるべきか。

心には大きく分けて、恐怖と不安とストレスという、三つのマイナス要素がある。
その中の、恐怖の発生と、不安やストレスの発生は異なるシステムである。
恐怖の多くは、脳幹という原始的な本能の部分が関与し、不安やストレスの多くは、大脳からの知的影響が大きく関係する。
恐怖から来る緊張と、不安から来る緊張は同じ地点に集結し、副腎質ホルモン刺激ホルモンよって、自律神経に作用する。
恐怖という本能的な情動は、すぐに立ち直ることが出来るが、不安やストレスは、大脳の知的構成(無意識)上、大変やっかいなものとなりやすい。
自律神経失調症やウツ病、統合失調症にまで及ぶ可能性があるのだ。
人間は知的機能に恐怖を添えて覚えてしまうと、恐怖観念を構築してしまい、それが起こる経緯を無意識に作ってしまう。
いつまでも無意識に葛藤を残した不安は恐怖を予感し、やがて、またいつくるかと、不安に変わり障害などになっていく。
恐怖と不安は緊張につながり、不安とストレスは心の葛藤につながるのである。
両者に影響しない不動心の構築が、強者人格につながるのだ。
不動心が脳内の知的フィールドと感情フィールドに働き、緊張せず、余裕が生まれ、集中力が明確になるのである。
私が催眠を行い、治療に使えるというのは、こういったことが非常に密接にリンクしているからだ。
ちょうど人体の勉強をした柔道家が、接骨の技術を覚えるのと同じようなものである。
将来、掣圏真陰流を学んだ者が、精神構築術と催眠療法を行う時代が来るだろう。
私の興味本位で催眠に入ったのではない。
武道構築のために、人間の構造がどうなっていて、どう動くかを徹底追及している、今の段階の模索であるに過ぎない。
もちろんすでに、強さが何か、弱さが何かは把握している。
療法のためではなく、強さの構築から生んでいる催眠武術は、催眠界にも大きな革命を起こすであろう。

不安に打ち勝つ心の要素は、無意識内の免疫にあり、恐怖の反応に打ち勝つには、生理学的に脳幹の響きが無くなることだ。
免疫を無意識に作るのは、信条というクリティカルファクター(真陰流でいう蓋)の育て方である。
信条というフィルターから無意識で造られた、強さの構築は、内側から観念となって表れる。
武道におけるクリティカルファクターは、主に、社会やあらゆる戦いに対して造られるもので、格闘技では主に、その競技に対して造られるものだ。
格闘技という、試合におけるプレッシャーや不安は、ルールに守られる他のスポーツ競技の感情と同じものである。
ルールの戦いという、知的フィールドで、不安を抱きプレッシャーを受けるだけだ。
殴り合いといっても、アドレナリン競技である以上、少々のダメージはプレッシャーとはならない。
殴られるから、蹴られるから、極められるからではなく、勝つか負けるかのプレッシャーが潜む世界なのであり、他の競技にあるプレッシャーと何ら変わりはないのだ。
格闘技は喧嘩ではない。喧嘩などのようにアドレナリンを出すと負けてしまう。
人生においての心とは?
よく私が格闘技のチャンピオンで、リングを降りて強いのを見たことがない。(これは誇張表現である、そもそも強い人間なんていないのだから、強くなろうとしなくては構築ができませんよと、訴えるためである)
他のスポーツの心と何ら変わりはないのである。
格闘技に限らず、義無く、自己を売るためにウソぶく姿は、資本主義社会で生きるダニと変わりない。
同じスポーツなら、高校野球などで義を育てられるように、その後の社会に与える態度に結びつくものの方が、素晴らしい。
こういうことを言うと「佐山は危険思想だ」と、戦後平和ボケ思想に育てられた子羊達が言いそうだが、今私が言わなければ、自由を履き違えた国の、真の独立精神復活はあり得ない。
性善説の自由主義社会だからこそ義は重要なのだ。
平和ボケして自分のボケも解からず、他人にこうだとほざいている弱者育成者は、自分の経験でしか物事を考えられずに、羊を誘導するキツネにすぎない。
弱さから訴える平和や愛は、責任無く自分たちの餌にするためのおいしい誘導であり、やがて群れ社会は正義の免疫を無くし、崩壊するだろう。
どんな社会体制でも、潮流を継続する摂理が最も重要なのである。
潮流を生き抜く強さを導く人間が遊牧犬を使い、正しく羊を誘導していくべきなのだ。
格闘技の折れない心が備わっていて「強そう」などと思うのは、絵空事に過ぎない。
または、格闘技の折れない心を持ち、かつ「いい人」になることや「おりこうさん」になることが強さだろうか。
先人が命をかけて育ててきた武士道は、そんな甘いものではない。
折れない心の対象は、その競技でのことであり、人生に正しく影響させるには、義の構築があってのことである。
性善説において、いい人のみに育てるやり方は、弱者を作るだけである。
弱者社会で折れない心を使おうとしても、空ぶかしのエンジンでしかない。
義の無い性善説社会では、フヌケ男か、異常者が育つだけだ。
人が良いだけで生きていけると願う弱者は、佞臣者にしかならない。
もし私が社会に迎合し、ポピュラリズムを植えつけようとしているのなら、愛だ、優しさだ、心を信じなさいとやるが、そんなつもりはもうとうない。
弱者日本よ、精神的に強くなりなさいと言っているのである。
我々は誓約説のような導きがない。
導きは生きるために、自己の信から造らなくてはならない国なのである。

真の武道は強さを造る。
強さの蓋、クリティカルファクターを造るのが陰思想だ。
武士道の強さとは、恐怖や不安に打ち勝つ、不動心の人格者から生まれる人間形成であり、決して無頼の輩の姿ではない。
平和と社会安定のために、へつらうような絵空事を言わず、礼儀礼節に優れ、あらゆる障害に免疫を持つ無意識を持つ。
催眠で恐怖や不安の要素を除去するのは、いとも簡単なことだが、
強さとは、それらを入れない蓋造りであり、知と本能の間に、免疫的機能を構築させる、無意識への術として内側から造ることだ。
私達はそれを「禅」、しかも強さを作る侍の「士禅」として行っている。
不安は恐怖を予想し、増大して無意識にリビドーを残す。
恐怖は誰にでも起こるものだ。
強さとは不安に響かせないこと。
恐怖が起きても一瞬にして、安定で包み込む術を持つことである。
無意識に弱さを持ち合わせないし、響きもさせない心をもつことだ。

何のための武道か。
武の心が興す精神と格闘術。
佐山が興す武道観とは何か?
私が行うものは影響力の高いものになる事は解かっている。
どうしようもない今の実情を私は楽しんでいる。
まずは、島国根性まるだしとなる。
「そんなもの信じられない」となり、
「怖いかもしれない」となり、
「本物かも知れない」となり、
「儲かりそう」となり、
ポピュラリズムを追及し始める馬鹿が出始める。
それに踊り出す馬鹿も出る。
性善説にもかかわらず。夢遊病者のように催眠にかけられた、町人拝金平和ボケ思想には、ほどほどあきれ返る。
無宗教と言いながらも、金が神様になっている小ざかしい者たちが、「私もそう思っていた」とか、「売れるためには」などとほざき、必死で動き出すのだ。
しかし現代日本において、武士道精神を復活させるための、大プロジェクトは特殊なものである。
現代武道は外見ではなく、内側から変えていかなくては、真の復活になるはずもない。
私は精神構築を造る武道に真剣である。
「日本武士道よ永遠なれ」の意志をさらに継続させるには、亡者共も追いつけない、歴史の挑戦をする武道を作り上げることであると信じる。

先日、私たちの実行組織、TIA本部に盗聴器が仕掛けられていた。
敵も恐ろしいもので、本部が六本木の地下のバーのさらに地下だという情報しかないのに、もう探りを入れてきたのだ。
さすがに本部の中までは知られてないようだが、最近バーの方に不審な人物が出入りしていた形跡は無い。
敵が解からない場合、私たちは罠を仕掛ける。
敵の注目はバーの時間外の情報である。
CIAやモサドや他の諜報機関の可能性もあるが、盗聴器の場合、必ずスペシャリストがいる。
今回の場合は半永久的に盗聴できるものではなく、三日間くらいしかもたない物だが、発見しにくいものであった。
私たちは、あるホテルで会合を行うという罠を仕掛けた。
当日、そのホテルの部屋で念入りに盗聴器を見つけようとしたが、何も仕掛けられている形跡は無かった。
しかし盗聴発見器では無理な場合もある。
敵が巨大な組織の場合はLWSを使うかもしれないからだ。
外からレーザー照射を窓にあてられ、窓自体がマイクになってしまうものだ。
我々は慎重にかつ悟られずに行動した。
すると偽会議が始まる時間に合わせたように、窓の外でカタという音がした。
私はOOHと窓の方へ行った。
部屋は17階である。何かを意識的にあてることは不可能だ。
外の気配に気づかれずに窓の下から、じっと見守る。
OOHは窓の横に隠れた。
音のした方に注目してみると、なんと窓にコップがついていた。
そしてそのコップには手が添えられていたのだ。
隣の部屋からコップを充てて盗聴するという、原始的な方法であるかのようだった。
しかし、ここは17階である。
するとメガネをかけた間抜けな顔がゆっくりと現れ、窓越しに顔が合ってしまった。
アッ!お互いにつぶやく。
カタブツ氏であった。
氏は驚いて、そのまま手を離し、下へ落ちそうになった。
私は慌てて窓を開けた。
するとOOHが、相手に手を向ける、いつもの癖がとっさに出てしまい、それをカタブツ氏がつかんだ。
「ウウウウッ」カタブツ氏は声になっていない。
「は、は、離してください!私も落ちますう」OOHも必死である。
窓は横にだが外側に開くもので、私は彼らを助けることができない。
窓を離すとOOHがカタブツ氏ともに、落ちる可能性があるからだ。ようするに窓にひっかかっていたのだ。
突然カタブツ氏がOOHの袖に持ち変えた。
すると両者はより外側へ体が持っていかれ、重みで完全に落ちていった。
私は思わずアッ!と叫んだが「まあいいか」と思い。
仲間のOOWの方へいった。
「どうした?」
「なんでもなかった。蛾が窓に当たって落ちたみたいだ」
こうまでした作戦に、まさかカタブツ氏の、浅はかな考えだろうと解かった今、本当のことは言えなかったのだ。
OOHはしょうがない。
私は気づかれないように、急いでホテルを出た。



2006.11.07
日本は戦争を放棄した国ですから、もう二度と戦争に関する内容や、暴力に向かう思想に導いてはいけません。
争いごとのない穏やかで、平和を抱く心が一番なのです。
自由と平等と博愛に生き、民主主義に舞進する国民となるのです。
もっと自由に芽生えなくてはなりません。
法律を犯さなければ、貴方たちは何でも出来る権利があることを、気づいてください。
子供にも権利があります。
叱ることも、体罰もケンカも絶対にいけません。
暴力は子供に心的外傷を残し、暴力的な子に育つだけです。
平等という理念を自覚させ、平和に生きる子を教育するのです。
挨拶や服装や言葉使いも自由がいいのです。
波のない平穏な穏やかさが一番で、愛に満ちた人間となるでしょう。
そのためには、すべて平等という観念を抱かせるために、男女の性別意識も無くさなくてはなりません。
お母さんも、お父さんや子供の奴隷ではないのです。
家事もすべて平等にやりましょう。
女らしさ男らしさという「らしさ」の概念は、人生に不必要なものです。
男女の着替えなんかも、同じところで行ってもいいのです。
日頃の言葉遣いも敬語はダメです。差別を作ってしまうからです。
運動会の徒競争も全員3位にしましょう。
愛と平等を自覚させ、自由奔放に育てるのです。
子供は可愛がれば可愛がるほど、愛を心に抱く人格者になるでしょう。
我がままと言われても、可愛がるだけ可愛がるのです。(20年以上も前でしょうか、一時日本で流行りました)
少しでも我が子たちが、愛で育てられない環境にあるのなら、学校に抗議しましょう。
学校がダメなら親が子供の権利を守るのです。
愛に育てられた子供は、誰にでも愛を与え、心優しい人間になります。
愛で満たされているので、行儀は良いし、いじめなんかもあり得ません。事件もおこしません。
そういう子が、やがて戦争の無くなる平和な地球を作るのです。

馬鹿かおまえたち!
生の存在が摂理とすれば、我々に課された道は、継続への強さ、社会を生き抜く力である。
社会に出て「真」にあたったとき、免疫(例えば誓約説で構成される挨拶、モラル、人を助けること、正義など)のない者が、愛で育てられ何ができるのか?
自由・平等・博愛を全て勘違いするだけである。
それが弱さなのだ。
弱さには二つある。モラルなき無頼の弱さと、腑抜けの弱さである。
群れで考えてみるとどうだろう。
ラグビーでスクラムを組んで敵に立ち向かう時、構成を知らない選手で勝てるだろうか。
腑抜けで勝てるだろうか。
一人一人がスクラムという免疫に慣れ、強く鍛えられた者たちのシステムで成り立つのである。
この場合、個人個人の強さとは暴力ではない。社会性への免疫なのだ。
生きることを信じる強さこそ、確信と免疫から生まれる、無意識の構成なのである。
この構成を我々は「義」という。
日本は正義の戦いといって、あの無謀な戦争を始めたから、正義を言ってはならない?
1000歩下がってやっても、社会で確信を無くす方が100倍怖い。
宗教は怖い?性善説の我々、真の弱さへ向かう方がもっと怖い。
性善説だからこその武士道なのである。
現代に興す武士道とは制度のことではない。精神性のことであるのは言うまでもないろう。
人間的差別を無くす世界?
そんなことは誰でもわかっている。21世紀アタリマエである。
強さ弱さでいけば、免疫のない弱い者の方が崩れてしまう。
ここ最近の事件、イジメで自殺したり、学校の校長がイジメを隠蔽しようとしたり、歯車のくるったような、イヤな事件も多いのは当たり前である。
根本はポピュラリズム主義の、免疫基礎もない愛愛教育の果てなのだ。
「イジメをやってはいけません」
「イジメを愛でやめましょう」
そういうインスタントで解決する問題ではないのだ。
無意識の強さ構築を造らなくては、何もならない。
例えば、武士道ではイジメ自体を、無意識に恥と構築している。
頭ではなく、腹芸で大きな器を持つのだ。
今の時代、
愛の世の中?
アタリマエである。
自由な世の中?
アタリマエである。
平和な世の中?
アタリマエである。
愛と平穏な人格?「らしさ」を無くす?
馬鹿か!自滅したいのか!
シドロモドロでウソをつくしかない愚者が、パニックを起こしバグをおこすか、事件をおこすだけだ。
免疫の構築を無視した、弱さへの無菌状態のなれの果てである。
第一、男女のエストロゲン、アンドロゲンという脳内ホルモンの存在を無視し、どうやって生き方を同じにしろと言うのか。

歴史上、差別に翻弄され、恥辱に見舞われたのはユダヤの人々だ。
彼らは世界中に平等を訴える。
フランス革命以降、自由・平等・博愛のスローガンは世界へ浸透し、今ではスポーツの世界も、女性のプロ化にさえ力を入れている。
よいか、彼らやそれを啓蒙思想として受け取る側の人々も、まず精神的構築がなされていることが前提なのだ。
キリスト教やイスラム教社会の啓蒙思想なくしてそれは達成されなかっただろう。
精神的構築とは、社会を生きる免疫である。
彼らは社会に対しての免疫を、一般常識として、心の無意識に埋め込まれているのだ。
何度も言うが、彼らは教会で教わるのである。神に誓うのである。
戦争をしてはいけない?
アタリマエだろ!
しかし歴史は戦争のない世界がくることを、証明してない。
対者を憎むのではなく、攻撃力なくして圏は保てないのだ。
この場合「圏」とは、国家の存続および、影響力、交渉力に関する、個人の中の普遍的無意識の強さである。
強く生きろ!
強さは免疫である。免疫を受け入れなさい!
そして器を広げなさい。!
必要以上のことはやる必要はない。
段階で向かっていくコツを使うのだ。
生かされるのではなく。義を確信し生き抜くのだ。
カタブツ氏も社会に出て必至である。
さすがに最近、食べるものがなくなり、夫婦で、ある農業系の学園祭に紛れ込んだ。
どうやら心配していたカタ子さんの例の技術は、日頃の生活のためのものだったらしい。
学園祭が始まる前日、倉庫へ二人で忍びこみ、大根を盗み出したというのだ。
普段は一人でくの一のように行っていたが、前回の事件からカタブツ氏を仕込み、二人で沢山の大根を手に入れ、今、中村家は大根料理が続いているという。



2006.11.01
私の道
掣圏真陰流 精神世界
掣圏真陰流は佐山サトルが創始する現代武道である。
武士道の本質を、現代における価値観で解き明かし、精神を極限まで極めるものだ。

「掣圏」は実戦と精神性の二つに意味される。
この二つが統合された時、私どもの本来の目的、TIAエージェントを育てる、優秀なる精神性と技術が生まれるのだ。
皆さんが後楽園ホールで見ている、スーツを着ている掣圏の試合は、TIAエージェントのための市街地型実戦を想定したものなのである。
佐山が意図する本来の「圏」とは距離のこと。
実戦であれば、立ち会う前の距離から、構え合った距離、打ち合いの距離、組み合う距離、抑えての距離などである。
「掣」とは、それらの距離を全て制すという意味である。

精神性であれば「圏」は、戦いのみではなく、挨拶も含め、すべての接し方の観念である。
「掣」は、その観念を制す。といっても自らの心のことであり、礼儀やあらゆる威圧への自己精神の抑制である。
戦いの時「圏」はあらゆる威圧で、「掣」は威圧を制す精神性となるのだ。

真陰の「陰」とは、人間の潜在意識を基とした精神構造である。
「真」とは、外界、すなわち世の真実であり、宇宙観でもある。
真陰とは、陰が真実を生むという意味なのだ。
しかし我々は真実を見ることは、ほとんど出来ない。
真は悟りを開くときに見えるものであり、我々は生まれた時から、ある種の観念を埋め込まれて育つ。
その観念は実際の真であるはずも無い。
我々が最も解る真は死である。

武道はその原型である武士道から育まれたものだ。
真の武士道を解らずして武道は追究できない。
武士道本来の道という意味は、当時なら藩やお家、今なら国家を守るということだ。
民の見本となり、命をかけて国を治める者の道。
いざ国難あれば命をかけて守る道。
そこには何があったか?
礼儀作法があり、道徳があり、正義への勇気があった。
正義は切腹で命をかけるべきものであった。
例えば、ある者が襲われ、尻ごみをして助けられない侍がいたとする。
その侍は恥を知り、腹を切らなくてはならない。
誓約説での一神教の人々は、小さな頃から教会に行き、神との契約の下、困った人を助ける。
なるほど、彼らが言うように、アダムとイヴは本能でリンゴを食べてしまった。
性善説=本能を基に生きる我々は、何も無ければ彼らが言うように、モラル無き性悪説の民になってしまう。
本来、人は人を殺せるし、強奪できるし、犯す事も、何でも出来るのだ。
何も無ければ、自由をはき違えるのは簡単なのである。
人類に群れが生まれ、文明が生まれ、社会を保つのにルールが造られた。
おそらく怖い罰則を伴うものだろう。
紀元前1800年のハンムラビ法典。「目には目を、歯には歯を」などで有名な、現存している最古の社会法律を見ても明らかである。
封建制を体験している国の民は、民度が高いと言われる所以であろう。
従わせるか、神と契約するか、武士道のごとく義を心に抱くか。

現世は自由・平等・博愛の時代だ。
自由と平等が愛で守られるという世界だ。
この時代、性善説で生きる者たちには何が必要なのか?
私がいう武士道とはこの部分を指しているのだ。

一神教では自由・平等・博愛の前に、教会で挨拶のしかたから、モラルや、人を助けること等を、伝道士や神父に、まだ無意識へのフィルターが無い歳のうちに叩き込まれ、神と契約していることを実感する。
自分たちが基本を固め、先のスローガンを通すのだ。
もし、何もない性善説者が、スローガンだけを実行しようとしたら、表面上の愛をくれくれと、自分のことしか考えられない性悪説の愚者となってしまう。
社会など、どうでも良い。自分が可愛いのである。
そして無心教と言いながら、実は金が神様になっているのだ。
そうすると治める方も、従わせるという方式しかなくなる。
法律がどんどん厳しくなるのは、当たり前なのである。
やがてハンムラビ法典が必要となり、国は衰退するだろう。

義とは正義でも義理でもない。
普遍的無意識のために抱く芯である。
ちょうど一神教の人々が神と契約し、心に誓ったものと同じようなものだ。
武士道では義を信じる心を「忠」という。
一神教では信仰と呼ぶ。

陰は無意識の構築である。
武士道は無頼のバイキングやバサラではない。
強いという観念が、民への見本であったり、社会制度を守る規範から成り立っている。
武士道にとっての強さの源は「義」であり、一神教の「信心」が「忠義」にあたる。

掣圏真陰流は現代武道である。
義は存在であるから今も昔も変わりなく抱くが、現世においての「忠」は何に対するものであるべきか?
現代に武士道が生きていれば、封建制度や男尊女卑などの制度も無いだろう。
世の中は変わり、世界も変わる。
武士道も変わるはずである。
鎌倉時代の武士道、吉野時代の武士道、室町時代の武士道、江戸時代の武士道、明治時代の武士道、
昭和軍人時代の武士道。
騎士道はキリスト教に飲み込まれ、自由・平等・博愛のフランス革命あたりから、差別を無くす運動が盛んになり始めた。
しかし世界の植民地に対するものは、まだ無かった。
先進国から言わせれば、文明を与えるための教育期間とでもいうところだが、格差が有りすぎ支配が長すぎた。
武士道が生きているとするなら、自らが廃止にするだろう。
徳川慶喜が無血で城を渡したように、良いものには良い制度を整えるだろう。
果たして平成時代の武士道とは、民主主義の、あるいは世界規範の中の武士道である。
封建制度、男尊女卑?そんなものが通用する時代ではない。
今の侍、差別をすることこそが「恥」となる。必ず武士道は言うはずである。
世界調和の中の武士道。どこに「忠義」を置くべきか。
我々は誓約説ではない。
性善説がしっかりと世界規範を生きるための、武士道でなくてはならないのだ。
そして現代日本。
縦社会ではなく、横の自由で平等で生きる社会?
何も構築できてない者達が、表面だけで生きてどうなる。
縦社会を変えろ。儒教を変えろ。原始儒教に変えるべきである。
あらゆる人々を尊敬しながら生きる社会。あらゆる宗教が共通するゴールドルールである。
新武士道のヒントは、原始儒教の真の姿。
「礼」は目上の者が目下に行う徳であるということだ。
縦社会、横社会、関係ない。互いに武士道として尊厳する関係こそ、掣圏真陰流の姿がある。
このことをある講演で話した時、カタブツ氏がいた。
後日、氏が道場に取材に来て、いきなり私に会いに来た。
「・・・・・・」
「どうしたの?」
「・・・・・・」
「ん?」
「早ようマロに挨拶せんかい」
私はいきなり鈴を鳴らし、氏を催眠状態に追い込み、講演の内容をすべて忘れさせた。



2006.10.30
この一週間は凄かった。
私は歴史に残す精神武道を造る覚悟だ。
催眠とは強いイメージを無意識へ構築し、意識へ認識させるものだが、真陰理論では、重要な一部分なのだ。
真陰流の理論を造り上げる過程で、意識・無意識が必要不可欠だと注目し、その連結部分を追求するために、徹底研究を始めたのが催眠なのである。
結果、変性意識(催眠感覚)は真陰流にとって、最強の無意識「真」を「構築」し、意識へ通す手段であると捉えた。
この度、いよいよ真陰流「陰」の一部実態が表に出る。
チャンネル桜の武道通信で掣圏真陰流「興義館」の特集を組んでくれたのだ。
5週にわたるもので、最初の2週は私が行う催眠セラピーの「前世催眠」。
次に士禅(自己催眠習得)クラスへと続く。
どうも日本は催眠に関する見識が、まったく遅れているらしい。
催眠を魔法か危ない物として、どんどん世界に遅れていくのは、ジレンマというより滑稽にさえ思う。
「信じない」「インチキ」「操り人形」「怖い」。
問題は大正時代にインチキ論が台頭し、ついには催眠禁止まで行われたことだという。
催眠先進国も、精神分析学の権威であったフロイトが、当時、催眠の応用を十分こなせず、つい最近まで影響したといわれている。
それもそのはず、当時、催眠はまだ幕を開け始めたところであったからだ。
その後も非催眠論は固められていき、今でも日本のフロイト派だけは「催眠はリラックスに良い」という見解しかもっていない。
さすがに精神先進国では、異なった勢力により催眠は進んでいき確立されている。
一方神経生理学も進み、「心因性」(精神障害が心理的あるいはPTSD等)、「外因性」(脳の病気や外傷)、「内因性」(心因、外因、両方で、ひとりでに内側から起こってきたもの)なども確立され、
現在では、カウンセリング、催眠療法、薬餌療法、外科治療(電流治療を含む)等に分野別にされている。
応用力乏しい日本独特の自立心のなさによって、現在も催眠は拒否され続けているのが日本の状態だ。
ここまでくれば馬鹿の壁ではなく、馬鹿のホメオスタシスである。
もちろんその中でも、頑張っておられる方はいる。
またテレビの催眠では、タレントが大げさに半演技を催眠の中で行ってしまう。
タレントのプロ意識上、変性意識でさえ、カメラの前では大げさになってしまうのだ。
なぜならプロデューサーに喜ばれるからである。
それを見て、一般視聴者は「まさか」と思う。
私は催眠をパーフェクト以上にこなすが、真の目的は戦いの精神活性部を意識へ上げることだ。
真陰流確立のための“アタリマエ”なのである。
特別でもなんでもない。早くそのことを認識してほしい。
今回の被催眠者は「武道通信」のキャスターの女性で、タレントがましく大げさなことはなかった。
本物の催眠であるのだからアタリマエである。
テレビを見た方は本当にビックリするかもしれないが、あくまでも私は催眠術師ではない。
掣圏真陰流の創始者として、催眠という分野を操っているに者に過ぎないのである。
ダイエットや禁煙、あがり症、退行、前世と色々こなすが、それは掣圏真陰流のために、開発、勉強してきた過程で、徹底的に催眠を追及したお土産である。
無意識への暗示原理が解かれば、その法則に則って、あとは暗示を組んでいく。
ただの催眠なら、緊張せずに最高のパフォーマンスが出来るよう暗示し、本番で精神状態がその気になるようには出来る。
どこの催眠術師でもやるようなことを、掣圏真陰流としてやるつもりは毛頭ない(勿論、それも簡単に出来る)。
掣圏真陰流理論とは、意識に普遍的無意識暗示を植え付け、無意識にそのための意義を構築をするのである。
だがら掣圏真陰流には信・忠・義・勇・節・智・仁が重要なのだ。
後は深い変性意識が、意思への感情として道「不動心」をつけてくれる。
掣圏真陰流「士禅」は、無意識と意識の変性意識「道」にすぎない。
その信条と観念は日頃造っておく必要がある。
構築は意識からの健在催眠が最も有効なのだ。
掣圏真陰流はこの原理を利用し、催眠を有効に造り出す、自己催眠という方法を学ばせていく。
侍が行っていた禅の原理である。
戦闘生理学として掣圏真陰流が、大変強力になるのは当然だ。
心理学や催眠を研究されている方には、この原理をお解かりいただけると思う。
今回のチャンネル桜「武道通信」は是非注目してもらいたい。
何度も言うが、私が行う催眠が強力になるのは当たり前なのだ。
そして掣圏真陰流は催眠だけではない。あくまでも一部なのである。
私がこの性格上、とことんやることと、なぜか天才的と言われ、催眠部分は大きく進化しただけなのだ。
現在造っているTIAの諜報部員の00H(ダブル・オー・エイチ)は、この催眠を施している。
訓練で他の団体に入りやすいポジションに置いているが、そのニヤけて人の良さそうに化けた人格を利用して、どんどん入っていかせるためだ。
しかし彼には一点、欠点がある。
酒がまったくだめなのだ。
先日も、00Hが仕事の事でカタブツ氏を誘い、六本木のTIA本部があるジャズバーで会食した。
彼はカタブツ氏の酒癖の悪さに驚いたが、それを止めているうちに、カタブツ氏の口内から発せられるアルコールの臭いを嗅ぐだけで、酔ってしまったのだ。
00Hはオチョコ一杯のビールも飲めない。
「カっ、カタブツさん。イっ、いい加減に、モっ、もう帰りましょう」
真っ赤な顔してヨレヨレである。
「何を言っているんで草加!なーんちゃって」
「わー、私もうダメです。地下に行って一休みしてきます」
思わず00Hが地下の存在を口走ってしまった。
「え!地下?これ以上地下無いでしょ。このビル?」
00Hは普段の訓練で不動心を身につけているが、酒が入っていたせいで動揺した。
「エっ、イヤイヤ!『地下行って』と言うのは、私の家が近いって意味です」
「へえー!でもあんたの家、深沢ジャン。近くないジャン!」
「本当はここに地下があって、あんた何かのスパイだったりして。解かった!佐山のスパイだ!」
00Hはおろか、周りにいる店の店員(TIA職員)も一瞬、カタブツ氏に凍った。
「ハッハッハッハ!秘密の入り口探しちゃお」
カタブツ氏はしゃぐ様に、店の中を物色しはじめた。
いきなりサーキュレーターが置いてある樽の方へ行き、その樽をずらし始めたときは、みんなが焦った。
「あ!」
酔っ払っているカタブツ氏も、目が点になった。
「あった・・・」
穴がばれたのである。
しかしその穴は最初に掘ろうとして失敗した穴だった。
本物のTIA本部への入り口は、まったく違うところにある。
時間的余裕が無かったせいで、まだ塞いでなかったのだ。
ただし、穴の深さは2メートルくらいはあった。
バーのオーナーでTIA本部の管理者00W(ダブル・オー・ダブリュ)が、カタブツ氏に話しかけた。
「すみません。これは以前の工事の失敗で、中は何もありませんから気をつけてください」
「へえ?」
カタブツ氏は少し考え事をして、すなおに引き下がった。
「社長。これ危ないから、私の知り合いに工事させますよ」
「はい。お願いします」
ここには何も無いし、断ってはかえって怪しまれると思い、00Wはカタブツ氏に頼むことにした。
翌々日、カタブツ氏に紹介された工事関係者と名乗る者が、一人でやってきた。
ヘルメットをして髭をはやしているが、どう見てもカタブツ氏だ。
一応、00Wは注意して動向を見てみぬふりをした。
騒いでもカタブツ氏に怪しまれると思ったからだ。
カタブツ氏が本当はどこかのスパイで、このTIAを探ろうとしているのなら、対処しなくてはならない。
しかし本当のスパイなら、こんなバレバレの変装はしないだろう。
当人は完全にその気である。
もしこれも演技なら、凄いプロである。
三日間は調査だといって、一日10時間くらいの工事をやっていた。
さすがに00Wも怪しいと思い私の所へ相談に来たのだ。
「あのカタブツ氏は何を考えているのでしょうか?どんな人なんですか?」
「どうしたの?」
「バレバレの変装して、この三日間、穴に入りっぱなしなんです。毎晩真っ黒になって出て行くんですよ」
「カタブツ氏は、何も深く考える人間じゃないよ。ただあさましさはあるがね」
「もしかするとTIAを嗅ぎつけて、本部の実態を探ろうとしているのではないでしょうか」
「まさか!」
「昨日、カタブツが帰ったあと、作業の穴を探ってみたんですよ」
「ほお」
「そしたら、穴を塞ぐどころか、どんどん掘り進んでいて、本部へ向かっているんです」
「え!」
「本部の場所を探っているのは間違いないですよ」
二人でしばらく沈黙し考えた。
「待てよ・・俺はあいつのことよく知っているから、大体何を考えているか分かるんだが、もしかして・・・・・まさかと思うが・・・」
「何か心当たりがあるのですか?」
「さっき本部の方へ掘り進んでいるといったね」
「はい」
「もし、彼にとってTIA本部は全く意識なく、それがもっと先の・・・・・」
「あっ!」
「そうだよ・・」
「まさか!」
「その『まさか』だよ!あいつならヤル!」
我々は周到な作戦を立てなくてはならなかった。
まずカタブツ氏の携帯電話に盗聴器をつけた。
TIAが誇る、超薄型の携帯電話用盗聴器で、電池の裏の部分へ貼り付けることができる。
「もしもしカタ子?もうすぐ大金が入るからね」
「どうしたの?水晶でも売れたの?」
「おいおい、奥さんもグルかよ」
私は軽いショックを覚えた。
「ヒッヒッヒッヒ!驚くなよ。先日あるバーに行って、凄いもの見つけたんだ」
「金塊でもあったの?」
「そう。そんなものだよ」
「あなた!また変なこと考えてるんじゃないでしょうね。子供も生まれたんだから、人の道を外れることだけはしないでよ」
「大丈夫だよ。絶対バレないから」
「あなた、やめて!」
「大丈夫!実はそのバーには穴があってな、ちょっと掘れば六本木交差点の銀行の金庫に行くことが出来るんだよ」
「えー!」
「今日、その壁まで行き着いちゃったもんね」
「あなた。何を言ってるの」
「そこからが一番大変なのよ。特殊コンクリートをくり貫く振動ドリルは用意してるの?バッテリーを凄く食うのよ、電源はどこからか持ってきてるの?」
「おっ、おまえ何で詳しいの?」
「そんなこといいの!もし本当に壁まで行ったのなら、その最後のくりぬきは少し残して、外側に破片が来るようにするのよ。赤外線センサーに反応したら大変だからね」
「うん・・」
「とにかく早く帰ってらっしゃい。赤外線センサーを感知するゴーグルがあるから、その使い方練習しましょう」
「おいおい。カタ子は何者だ」
00Wと盗聴無線に釘付けになってしまった。
翌日、案の定、壁が外側に打ち抜かれ、カタブツ氏が現れた。
変なゴーグルを付けている。
そのとき私はある鈴の音を鳴らした。
先日カタブツ氏が催眠に来たとき、いつでもその鈴の音を聞いたときに、催眠状態に入れるよう暗示しておいたのだ。
「あれあれ・・・・」
スーっと催眠に入るカタブツ氏。
私は健忘催眠をかけ、穴の存在をすべて忘れさせた。
やれやれ、凄い一週間だった。



2006.10.23
真の私を読め
私は理論派だという。
なんと馬鹿らしい!
また私はパーフェクトを目指し過ぎ、練習も厳し過ぎると恐れられているという。
オイオイ、勘弁してくれ。
確かに妥協は許さないが、何を言っているのだろうか。
どうせまた何も解かってない、どこかの馬鹿マスコミに、誘導された記事を信じる子羊どもの知恵であろう。
私を一選手、又はどこかのジムの、トレーナーだと思っているのだろうか。
格闘技の佐山に対し「なぜそこまでやるのですか?」の質問である。
歴史上の挑戦をしている私にとって、理論派とか、技術論とかの価値観は基本中の基本、当然である。
一つの格闘技、あるいは歴史上の武道を目指すものにとって、理論とは太陽が毎朝昇るのと同じくらい、アタリマエ!なのだ。
この立場の人間が理論なしで、何を造れというのか。
妥協してどのような駄作ができてしまうのか。
有名なのだから、名前を利用して武道名を上げろ?
タイガーマスクの表ばかり見て、裏側を見られない、いや見ようともしない者がいる、そやつらは悲劇のピエロである。
歴史に挑戦している結果の掣圏真陰流「戦闘生理学」の理念無くして、初代タイガーマスクを語ることはできない。
私の生きるごく短い現世、潮流堅持に何が出来るのか。
佐山はあるものを作り上げれば、それを捨てて次に進む?
大きな大間違いだ。
私の本筋は、柔道、アマレス、プロセメントからキックボクシング、シューティング、修斗、アルファ&オメガ、掣圏道、ついには掣圏真陰流(戦闘生理学)。
すべて同じ潮流なのである。
作り上げればではなく、進まなくては大義が通せないのだ。
貴方がたからすれば、一つの大義。私からすれば進まなくてはならぬもの。
だから大変満足している。流れは一つの狂いもなく進んでいるからだ。
私にはすべて同じ潮流なのである。
歴代武術の真実を見よ。
かつて「道」を命がけで守った先人ら流派は、経験とかその人の感性だけで済むはずもない。
ましてはメディア用とは・・・お笑いである。
現代のメディアに騙される武術観など、何の見本にもならないのだ。
しかし私が動くところに人がある。そしてその過程に固まる。私は進めない。責める必要もない。
夢も大切だが、夢だけで国は守れない。
私が興しているのは真の世界である。真の強さである。
これだけ言ってもまだ解らない者がいる。そやつらは真の歴史を言っても寝ているし、戦闘生理学なども信じてない。信じる気もない。
そしてお決まりのように、私が催眠の天才だと信じない。
私が催眠をかけるところを目の当たりにして、初めて焦る姿が面白いが、私の真の潮流や戦闘生理学との関係すら、理解しようとさえしないのだ。
ようするに虎のマスクの表しか見えていないヤツら。しかもピョンハネプロレスを見て喜んでいるようなヤツらだ。
もし私がこんなピエロの意見を聞いたらどうなる?
明日のプロレスなんてあろうはずもない。
私が目指すプロレス復活のキーワードは、ストロンゲストスタイルである。
飛ぶなとは言わない。確かなセメントが出来て、強いレスラーがプロレスラーなのである。
これが将来のプロレスラーの姿だ。みなさんにお約束しよう。
今残さなくては本当に終わるよ。プロレス。
リアルジャパンの理論は、一から誇りあるレスラーを造ることにある。
今のタイガーを造ったように、セメントでガンガン魂を入れ、後は思想が歩き始める。
マスクの裏は布しか見えない。しかしその裏に着けられた本人が最も大切なのである。
私の潮流は初代タイガーマスクだ。
昔これを言った時、馬鹿マスがわざと違った書き方をしたことを思い出す。
今なら、笑って一個連隊入れている。

ビスマルクは「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」と言った。
私は賢者ではないが、この場合歴史とは、武士道や精神科学であり、これらがあるからこそ掣圏真陰流は途方も無い方向へ進めるのである。
技術もまた然り、一つの経験だけでは許されない。
精神を考えてみよう。
私が武道を興すとき、その本質を突き詰め、武道の原型である武士道が何かを理解した。
そして「最高のものを復活させなくてはならない」と心に誓ったのは歴史にある。
強くなくては滅んでしまう。自然界の法則だ。
文明を持つ人間は本能を弱くすることも、強くすることも出来る。
宗教が戦争を起こす?
弱さが社会や秩序を滅ぼすのではないかな。
本能で生きる我々には構築が必要なのだ。
その最たるものは強者の倫理観である。
先日、警視庁のあるトップの方とお話しすることが出来た。
紹介者が私のことを誇大に宣伝してくれていたので、大変気持ちよく意見を交換させていただいた。
歴史観に優れ倫理観もしっかりしておられ、頼もしかった次第である。
まだ日本は大丈夫だと確信したが、街や教育、外圧を見れば安心出来るはずもない。
私たち民間でうねりを上げていかなくてはならないのだ。
そのために私は大げさに言うこともあるが、「弱くな〜れ!」という催眠にかかった、この国の国民に響かせる役目と思って勘弁してくれ。

土台から造るのが私の仕事。
現在、総合格闘技といわれる分野の技術力は、まだまだ完全では無い。
おそらく将来の完璧な時代の、60パーセントにも満たしていないだろう。
生まれて間もないものであるのだから、今そこに期待してもしょうがない。
土台から私が担った以上、出来うるかぎり、将来のパーフェクトに近づいていくだけである。
今、遅れた技術でも勝てる現代に、技術照準を合わせてもしょうがないのだ。
私の積み重ねる技術論や精神論は、一つ一つ未来永劫に責任を持つ、掣圏真陰流の体系につながるものである。
心・技・態、すべてが責任なのだ。
町人拝金さまへの技術という、安易なものの殻に私がいるはずもない。
私は選手をチャンピオンにしようと育ててはいない。
未来永劫への掣圏真陰流を、引き継がせるために教えているつもりだ。
心に普遍的無意識を抱く、今の私の弟子に「難しい」なんて逃げる者など一人もいない。
掣圏真陰流は近い将来の頂点を目指しているものである。
私どもにとってその実戦が、リング上のものだけではなく、極限の戦闘であることは、もうお気づきの方はいると思う。
興義館に来て、わが弟子たちの練習を見るが良い。
勝つために何をやらなくてはならないか、彼らは、いつか来る日のための、極限の頂点を楽しんでいる。
午後から始まるプロ練習は、興義館が二階であるにも関わらず、道行く人達をふりかえさせる。
その気合やサンドバックやミットの音だけではなく、ヤツらの気が街中に充満するのだ。
後半につぎ込んでいる1時間の寝技の時間は、その性質上、声は出ない。
しかし熱気は館内に篭り士気となる。
さすがに一般会員には、技術論を几帳面に分け与えているに過ぎないが、掣圏真陰流を引き継ぐ者は違う。
それが私の答えだ。
我々は技術を誇り、心を誇り、態度を誇る。
精神的な捉え方も、100歩も1000歩も先を行っているだろう。
しかし興義館は技術や戦闘生理学だけの館ではない。
私がやるべきことは、この日本を正常な倫理の強さに戻すことである。
興義館はTIAの訓練所でもあるのだ。
この度、TIAの本部を、皆さんにとっては灯台下暗し、六本木のど真ん中に作った。
あるジャズバーのさらに地下を掘り下げ、約20坪、4部屋の空間を作ったのだ。
勿論バーからは誰もその秘密の入り口は分からない。
入り口は小さいが、一旦、中に入ると結構機能的に充実している。
ジャズバーのオーナーがその管理をしているが、職員は皆コードネームで呼び合っている。
以前から潜入職員を造っているのだが、それは大変苦労する。
今は、テストのため、他の格闘団体へ潜入させ、本部で情報を集中する訓練をしているのだ。
作戦は予想通りうまくいっている。
潜入はまず敵を安心させなくてはならない。
エージェントの一人に行った訓練は、人格破壊からはじめた。
誰がどう見ても、エージェントとは気づかれないタイプにしなくてはならない。
そこで我々は心理学を研究し、普段は情緒不安定な人格に化けるよう、したてあげたのだ。
例えば、テレビの特命係長みたいなタイプで、人の良さそうなしゃべり方を訓練させ、話す内容は回りくどくゆっくり、相手が聞き飽きるほど丁寧にさせた。
何かあると、ワー!と驚くようにさせ、いかにも気が弱く、すぐ相手に手を伸ばし「冗談はやめてください」と気弱な声を出させる。
この練習だけで2週間かかった。
手の込んだことをしてまでも人格を造り出したのだ。
例えば、出来る男は、約束の時間を絶対に守るイメージがある。
そこでこのエージェントには、ことごとく約束の時間を守らせないことまでさせている。
情緒不安定を演出させるため、普段は何かとすぐニヤけたような愛想笑いをさせたり、いきなり大声をあげさせたり、問題が発生したときにはコンピューターがバグするように、言葉をつまらせてしゃべれない演出など、こと細かくやったのだ。
現在は色々な格闘団体に侵入できる立場にいさせ、テスト潜入をしている。
格闘技オタクのふりをさせて、オタクがましく古い情報を研究し、ペラペラとしゃべらせたりもしているのだ。
先日いっしょに車に乗ったとき、
「いつまでこんなことを、やってなくてはならないんですか?」と、その人格に化けるのに嫌気がさしているように、笑いながら言った。
「今は、訓練中なのだから我慢ではなく、よりその特殊な人格形成を磨いてくれ」
私も笑いながら答えた。
「何で私が早稲田出身で、40過ぎて独身という化け方をし、こんな姿してなくてはいけないんですか」
半分冗談のような、半分本気のような喋り方である。
「まあまあ」
「女房は今、5人目の子供がお腹の中にいるんですよ」
「おいおい、そんなこと言ったら、そんな君に興味を持って、合コンした娘にバレてもいいのか?」
冗談でそんな会話をしているとき、00Hが突然真顔になった。
「ところで、あのカタブツって人なんですけど・・・」
「何かあった?」
「私こんな変人を演じてるんで解るんですけど、あの人はただの変人では無いですよ」
「何で?」
「僕、あの人の近所に住んでるんですが、つい先日、近所の公園で、あの人がベンチに座って頭抱えてたんです」
「いつ?」
「4・5日くらい前です」
「え!それで」
「心配になって、様子を見に行ったんですが、あの人、頭抱えて祈っているんですよ」
「ん?」
「神よ!神よ!って」
「ああ・・何だ」
「え・・何か知っているんですか?」
00Hに説明するのも面倒くさかったので
「そうだよアイツ今宗教にはまってるんだよ」
適当に答えた。
「何の宗教ですか?」
「オレもよく分からないけど、今度、出毛するらしいよ」
「へえ!わからないものですね・・・」



2006.10.18
戦闘生理学としての掣圏真陰流
掣圏真陰流でいう意識とは、無意識と外界をつなぐフィルターである。
そのため一般心理学と違い、外界である真実を直接見ることはない。
フィルターとは自己の自我「信条」や「観念」であり、あらゆる感覚的なもの、声、イメージ、身体感覚、感情、シンボル、色などがある。
意識とはそのフィルターが優勢な状態であり、無意識と濃いフィルターが見る外界は、真実を見ることは出来ない。
出来ないからこそ戦闘モードは強くなれるのである。
人間が真実を見ることは、さらにその上の世界へ行くか、まったく無にならなくてならないということだ。
何度も言うように、陰は自己を器とした、特殊な無意識のことである。
「今」とは器のフタを意味し、外と中の間のフィルターとなる。
「云」は器の中の雲気を意味し、無意識の中身だ。
一般心理学では、意識と無意識をよく氷山で表す。
海から見えている氷山は、実は10パーセントしかなく、後の90パーセントは海の下に潜っている。
この海面に出ている部分が「意識」で、私たちの自我を含む、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を司る場所とされている。
90パーセントの無意識は、意識への貯蔵庫となって観念を送る。
近代心理学の基本である。
フロイトによれば、生まれた時から司られた無意識が、超自我といわれる第一思考となる。
第一思考の構成から、リビドーというトラウマ的無意識の癌を生み、意識へ病状をもたらすのだ。
ユングは無意識の中に、本能、普遍的無意識、個人的無意識などが存在し、心の構成を明らかにした。
アドラーはコンプレックスを唱えてきた。
近代催眠にいたっては、動物磁気説から、ヒステリー説となり、現代の暗示説が解明されてきた。
フロイトという一流のパイオニアが、催眠を十分に駆使できなかったため、催眠界が大いに遅れたともいう。
無理もない。当時は、催眠の理論は現在のように固まってはおらず、
その患者の症状にしても、脳まで侵食した病状か、軽度の催眠で対処できる病状かが、分かるはずもない時代だったからだ。
心因性か外因性にもよるが、当時フロイトまでいく患者は相当の者たちであったろう。
以上のように医学として、心や病状の解明は進んできた。
戦闘生理学とは、戦いのための精神構築と術をいうものである。
とは言っても、決して野蛮性を造るものではない。
興奮や怒りでは戦いに勝てないのである。
戦闘者の無意識はどう構築され動くか。
真陰流では意識も、真実ではないイメージの姿に影響している。
意識は何を感じて、退いたりビビったり萎縮したりするのか。あるいは覚醒したり、活力するのか。
私たちが普段感じているそのものは、本能からの直接の感覚ではなく、経験と構築という無意識からのフィルターなのである。
戦闘時にどう神経が動くか、そのためには無意識が、どう構築されてなくてはならないのか。
例えば、無意識があるものを信じきれていれば、怖さへの自律神経物質、CCK4を遮断させ、退かず、響かず、動ぜずという人格が出る。
活力であるチロトロピンは、怖さを遮断された道を通って、何の曇りもなく超乗派となって戦いに出る。
怒りの脳内物質、テストステロンと、アドレナリンは直結するが、怒りと興奮の作用記憶は、無意識にたまる戦闘意思構築エネルギーのために使うものだ。
練習時の最大筋力およびスピードの要請。
戦闘中の無痛感等。
よってアドレナリンは用意(練習)に使うもので、戦闘時は覚醒された興奮が、勝手に現れるものでなくてはならない。 
私が練習で厳しさを要求し、私生活では冷静なる態度、寛容の不動心を心掛けさせるのは、興義館が真の戦闘者を造るところだからだ。
いかに効果的なタイミングでアドレナリンを起こさせ、効果的な場面でエンドルフィンを起こさせるかにかかっている。
あとはホメオスタシスの原理を使っていけばよい。
ただ怒って誉めるだけではだめなのだ。
あるところへの共通的な信頼感こそ、重要な要素なのである。
真の戦闘者とは、信じる義に優れ、厳しい鍛錬で体と心を造り、優しく礼儀正しい冷静なる者の姿である。
侍の死を考えてみよう。切腹や特攻はアドレナリンで行うものか?
よく「死ぬ気でやれば出来る」という言葉をよく聞くが、果たしてそうであろうか。
侍にとっての死とは煩悩を外し、意思を固めた極限のチロトピンの道である。
教会も宗教心もないこの国で、自由で信念のない(あるとすれば金か売れる目的)心地よさで技術のみの格闘技をしても、真の強さは得られるはずもない。
私が行う催眠は、一般のものではない。CCK4を遮断し、チロトピンを活性化するものだ。
だから強力であると言っているのである。
殆どの者がその意味を解っていない。イヤ解らなくてもいい。問題は解ろうともしない事だ。
何が行われようとしているか想像もつかないだろう。イヤつかなくても良い。問題は佐山が何をやろうとしているのかを察そうとも理解しようともせず、こっちの方が儲かる道だから、こっちに寄せようとしている姿である。
かつて修斗をやったときも同じであった。簡単な理論であったが、解った瞬間、堰を切ったように我先へと町人拝金へ流れ出した。
いずれはっきりとされるだろうが、歴史の愚行である。
掣圏真陰流は理論と構成と目標で、かつてとは比較にならないレベルだが、いずれ、汚らわしいこやつらはセン滅され、吹けば飛ぶように消え去るだろう。
この原稿をメールでカタブツ氏に送った。
その二日後、興義館にカタブツ氏の奥様がやってきた。
かなり深刻そうな顔をしている。
「はじめまして、カタブツの家内で、カタ子と申します」
「え!カタ子さん・・・」
「はい」
「タカ子さんじゃないんですね?」
「はい、カタ子です。よく、冗談でしょと言われるのですが・・・」
少し舌ったらずだが、おしとやかで感じの良い人だった。
「はあ、まあご結婚おめでとうございます。いったいあの男がどうやって貴方にプロポーズできたんですかね?」
最大の疑問だったが、奥さんは少し赤くなって答えてくれた。
「実はサイパン旅行に行った時でして・・・」
素直にまじめに答えようとしている。好感度抜群の人である。
「レストランに行った時なんですが、夕日が見える最高のところでした」
「お似合いですね」
んな訳ねーだろ!と心で叫びながら言葉が出ていた。
「はい。彼の長髪が似合ってて、とても素敵でした」
「え!いつ頃ですか?」
「1年前です」
「え!・・・はい。まあそれで」
「食事の最後の方で彼、何かウエイターともめたんです。私は少し英語が解るのですが彼はダメで・・・」
「その時、ウエイターが大きな声で彼に英語で怒鳴ったんです」
「誰が払うんですか?あなた方はカップルなんでしょ。彼女は何なんですか?結婚してるんでしょ!」
「彼、少し困った顔したんですが、いきなり、大きな声で言ってくれたんです」
「カタ子と!」
ウエイターはさらに詰めよりました。
「メリー(結婚でしょ)!」
「カタ子と!」
彼らは何回も繰り返すんです。
「メリー!」「カタ子と!」って。
「私は嬉しくなって、彼に抱きつき、OKよ!と言って、その場で余分にチップも払い、ウエイターも私達のことをわかってくれたのか、すごく喜んでくれたんです」
奥さんは、その情景を陶酔するように喋っていたが、私はカタブツ氏のことをよく知っている。
「奥さん・・・・」
「はい?」
「それは、あいつのことだから、チップをケチろうとしてウエイターともめて、英語が解らないフリして、『カタコト(片言)』と言ったんじゃないですか?チップをよけいに払えばウエイターだって喜びますよ」
「え!・・・・・・・・・」
長い沈黙だった。
「あの野郎・・・・・・・・・・・・!」
「え!」
押し殺した殺気が漂う空間だった。
「まあ、まあ、まあ、今日は何ですか?」
私は慌てて、その場の空気を変えようと本題に移ろうとした。
「ええ、ブツがですね・・・」
「え!」
いきなり声のトーンが、さっきのおしとやかモードから変わってしまった。
「ブツというのはカタブツ氏のことですか?」
「まあそう。ウチではそう呼んでるの」
「はあ」
「この前、先生の催眠受けて帰って来た時から変なんですが、最初の催眠では最高な気分になっていて、いつもブルーハワイを口ずさんでいたんです・・・・」
「ところが今回は、ずうっとボーっとしてるんです」
そうだ前回は水晶がバレ、頭たたいて催眠を解いたので、中途半端な解け方のままだったのだ。
催眠は解くことが最も重要なのである。
「わかりました。では連れて来てください。もう一度、変性意識に戻し、解けきる暗示をすれば問題ありませんから」
「はい。でも少し違うんです」
「どうしたんですか?」
「二日前、先生のメールを受け取ったのですが、ブツがボーっとしていて、私に読んでくれというので、読んでやったんです」
「そうですか」
「ずうっと普通に聞いていたんですが、最後の文章でいきなり頭を押さえてトイレに入ったきり、二日も出てこないんです」
「二日も!」
「はい・・・」
「最後の文章ってどんなくだりでしたっけ?」
「確か、『汚らわしいこやつらはセン滅され、吹けば飛ぶように消え去るだろう』というところです」
私は何故だろうと考えたが、セラピストとしては少しでもおかしな言葉を見逃してはならない。
少しひっかっかていた事を聞いてみた。
「先ほど、サイパンのレストランで『彼の長髪が、とても素敵でした』とおっしゃっていましたが、ご主人は今も長髪なのですか?」
「はい・・・・何か?」
「奥さん。もう一度、私のメールの最後のフレーズを、ご主人に言ったように言ってみてください」
「はい。『汚らわしいこやつらはセン滅され、吹けば飛ぶように消え去るだろう』・・・」
奥さんは少し舌ったらずの声で話した。
「解りました!これから私を家に連れて行ってください。ご主人と二人だけで話し合いますから」
私はカタブツ氏の家まで行き、奥さんにはトイレに来ないようにしてもらい、トイレの中のカタブツ氏話しかけた。
「おい!カタブツさん。佐山だよ」
「先生!・・・・・・」
カタブツ氏は泣いていた。
「二日も泣いてんの?」
「マロはもうダメです。バレてしまいました・・・・・」
「心配ないよ。聞き間違えただけだよ」
「何がですか・・・・」
「だから!催眠が解けきってないところに奥さんから『汚らわしい”カツラ”はセン滅され、吹けば飛ぶように消え去るだろう』って言われたと思ったんだろ」
「違うんですか・・・・ずうっとバレないよう気をつけてたのに」
「奥さんは舌ったらずだから『汚らわしい”こやつら”は・・』の『こやつら』が『カツラ』に聞こえただけだよ」
「・・・・・」
いきなりトイレの戸が開いた。
「わかってますよ!いやあ・・今回の便秘には参りました」
目を見ると完全に催眠は解けていた。
私はあきれたが、まあいいかと思った。せっかくカタブツ氏がつかんだ幸せである。
氏のトラウマもこの夫婦にとってはホノカナものだ。
別に一生こうでも構わないと思った。
すると奥から奥さんが泣きながらやってきた。
美しい光景だ、私はお邪魔しようと二人だけの空間を譲った。
「テメー!ブツ!おまえサイパンで言った言葉は、チップをケチろうとして言ったカタコトだってなあ!」
い、いかん!すっかり忘れていた。
あまりの予想外の展開で、奥さんが殴りかかるのを私は止められなかった。
だが次の瞬間、三人が三人とも、アっ!と声を出して、時間が止まったように、その場で長く凍ってしまった。
アドレナリン全開で殴ったと思った奥さんの手は、殴ったのではなく、カタブツ氏の頭に手をやり、むんずと引っ張ったのだ。
カタブツ氏の頭。私の驚き。奥さんの手にある黒い物体・・・・・・・。



2006.10.14
本日ある雑誌が取材に来た。
私の武士道観を聞きたいというので、お受けしたものだ。
ところが興義館にやって来た取材人は、私が昔、創刊号に出ているので、今回その何周年かの記念号を出すため、応援の記事が欲しいという内容だった。
はっはっはっは!なめられたものである。
少し前、この雑誌に、ある選手と対談をたのまれたが、現日本を代表したように、髪を染め、刺青を入れ、ペラペラと馬鹿をさらけ出しているような者と、なぜ私が対談しなくてはならないのか、対談してもよいが、その選手の命が可哀想なことになるぞと言うと、引いてしまった経緯があったばかりである。
馬鹿らしい。
今回は、その雑誌に応援のメッセージをと言ってきたが、そのようなメッセージを、送るつもりはないと、きっぱり断っておいた。
町人拝金主義的マスコミに、国家存亡をかける武士道観などどうでもよいのである。
ようするに売れれば良いのだ。それに群がる格闘家?ふざけるな!私には手を手をすり合わせる町人にしか見えない。
では佐山さんは格闘技にプロはいらないと言うんですかと来た。
おいおいおい、CNNのダンロジャー気分なのか?
「私は以前から相撲のようなシステムを目指していると、当時のあなたの雑誌に最初から言っているでしょ。りっぱなプロですよ」と言っておいた。
また、「一神教の人々のように小さな時から神と契約し、礼儀作法から正儀、人を助ける事。盗みをしない事。人を殺さない事などを、無意識に入れられている人々にくらべ、私達は本能を大切にする主義の元、性善説から育てられている」
「戦後この国は武士道観や多神教観を無くすだけでなく、学校の教師さえも縛りつけ、一神教の形だけマネしても、自由平等博愛をはき違えるのはあたりまえである。武道はその性善説のためのものですよ」
とも言っておいたが、ピンとも来てないだろう。
今だに私の格闘技に対する思想を、理解しようともしない。
断言する。この先いくら何をやっても、真の意味を知らない者どもが、目先の視聴率を争って、拝金だけ
の世界を泳いでも、このまま格闘技界と称せれるものの未来は無い。
ましてや、日本を考えた思想の話など出来るわけがない。
マスコミを絶対に信じてはならない。
意見として見る分には良いが、大新聞、大テレビ、大先生だからといって、ほいほい乗るほど、この国にはもう猶予はないのだ。
芸能やスポーツには罪がないから、などと考えるのも大間違いである。
日本の真を取り戻す構造改革は、機密超法規的にやるしかないのだ。
安倍総理が日本CIA構想を打ち出してきた。
総理は歴史観にも精通され頼もしい人材である。
歴史の真実知らずして、国体(戦前の意味ではない)は語れない。
たとえ総理が靖国に行けなくても、私達はもう解っている。
何の気遣いも無く、まい進してほしい。
ここはもう民間で広めていけば良い。もう国民は「政府でさえ論争している」と知ってしまった。
だからといって日本人は国際社会に反発する、愚民では有り得ない。
少し勇気が無いだけである。
それも戦後のウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦後宣伝戦略作戦)のせいだ。
小泉前首相の戦略は、大いに国民に真実を認識させた。
そういえば最近私が歴史の話をしないと思っている人がいると思うが、そんなことはない。
聞きたい人にはどんどん喋っている。
私の主旨は強者を造ることにある。
真陰流の陰とは、器のフタが「今」。器の中の雲気を「云」と意味するもので、
器が自己。器の中の運気が無意識。
器のフタが外界と無意識を通すフィルターの意味である。
心理学を少しでも知っている人なら、意識と無意識のことはご存じだろう。
陰には意識の部分がない。フタのフィルター自体が意識部なのである。
フィルターとは「クリティカルファクター」。信条や観念の防御フィルターである。
意識は真実を見ているか?感じているか?
真実を見れる者などいるわけがない。
世界でも一人か二人。もしくはカタブツ氏くらいだろう。
これ冗談。
実は催眠はこのフィルターを通っていく。
いや、陰の理論では、普通の状態でも、我々は催眠状態なのである。
無意識に近づけば近づくほど、その意識は強くなっていく。
そのときの意識が変性意識といわれるものだ。
最近、私はよく前世催眠を行うが、催眠は強者を造るための一部としても行っている。
あくまでも将来の日本CIAエージェント用の、精神基盤の術として用意しているものである。
エージェントには自己催眠を奨めている。
実際にアメリカの元CIAの方と食事する機会があり、かなりの長い間、話をさせてもらったが、私の思想とまったく同じなのに、双方で驚いていた。
その方も催眠をやる。しかも高度に。
興義館はTIA(タイガー・インテリジェンス・エージェント)を養成する場所である。
だから市街地型実戦格闘技であり、尾行や真歴史観、思想、自己催眠などを教えているのだ。
将来は外国語や電子部品の開発にも手を入れていきたい。
興義館の入り口の、TIAと書いてある文字を解る人はあまりいない。
実はカタブツ氏はその内容を探ろうと、催眠を受けにきていたのだ。
受ける名目がなかったので、前回、思いつきで「若くなる催眠を」と言ったらしい。
今、氏はエルビスになりきっているが、段々催眠が解けていた。
今日の夜は催眠治療が一人キャンセルになったので、カタブツ氏を興義館へ呼んだ。
「最近、私おかしいんですよ」
カタブツ氏は本当に悩んでいるようだった。
「どうしたの?」
「私が私でないような気がするんです」
「ホウ、例えばどんな症状があるの?」
「はい、なんだか最近私はエルビスではないんじゃないかという妄想が起こるんですよ」
「え!」
私は思わず吹き出したが、氏は真剣である。
「ときどきボーっとして鏡を見た時、一瞬カッパが映るんです」
「プッ!自分のことそんなこと言ったら・・・・・」
「え?」
「イヤイヤ・・・エ、エ、エルビスが自分のこと、そんな・・・」
「そうでしょう。スターの宿命なんですかね」
「そうそう。とにかく治療しましょ」
重傷というか、まともになったというか、とにかく催眠の素晴らしさを体験させてあげようと、前世催眠に入れていった。
私の暗示のもとに、徐々に徐々に現れてくる本人の前世の姿。
氏に自信をつけさせようと、氏の最も栄誉ある前世の世界に導いたのだ。
過去世への移動を誘導していき、氏の最も誇り輝く人生へ到着させた。
「ではこれから、貴方の最も輝いていた過去世の扉が開きます。3・2・1・・・・・・」
まず過去世にいるという認識を、その大地である足元から確かめさせる。
「貴方は今何を履いていますか」
私の質問に、氏の無意識が答える。
「サンダルのような紐がついたものを履いています」
来た!と私は思った。古代ローマ人の姿ではと予想したのだ。
「膝は出ていますか?」
「はい」
「膝から上を見てください。下半身は何を着ていますか?」
「白いスカートのようなものを着ています」
「貴方は男性ですか女性ですか」
「男です」
ますます古代の姿である。
カタブツ氏の前世がジュリアス・シーザーだったら凄いことになるなと期待が高まる。
「上半身へと移ってください。貴方は何を着ているのですか?」
「何か古代ローマの服のようです」
「ほう!あなたは徐々に、あなたが最も輝いた前世の全体像が現れてきます」
「もう見えてきましたか?」
「まだよく解りません」
「いいですよ、徐々に徐々にはっきりと現れて来ます」
「では、貴方の名前は解りますか?」
「ジュ?・・・・ジュリアス・・・・・・・・・」
来た!
「まぶしい!」
氏は突然声を出した。
「え!」
「はっきりと見えて来ました。今私は輝いています」
「何が?・・・・」
「頭です」
「え!貴方は誰ですか?名前は?」
「ジュリアス・ゴンザレス」
「え!貴方は地球上のどこにいて、いつの時代の人なんですか?」
「アトランティスです。時代は解りません」
「ええ!アトランティス?輝いている時代とは、頭のことだったのですか?」
頭だったら自信を与えるどころか、大変なトラウマになってしまう。
すぐにでも暗示を変えて、違う過去世へ移らなければと焦った。
「いいえ。水晶です」
「え!貴方はそこで何をしている人なのですか?」
「水晶を売っています」
私は何かを思い出した。
去年変な水晶を氏から買わされていたからだ。
「いったい貴方はいつの時代の人なのですか?はっきり思い出してください」
「私は今・・・・2005年・・・」
「え!では貴方の最も輝いていた時代とは、去年、水晶を売っていた時代なのですか」
「はい。会社からの給料として、そのへんで掘ってきた水晶を、アトランティスの服を着て、アトランティスの幸運の水晶として売り、生計をたてていました」
「え!この野郎!」
私は思わずカタブツ氏の頭をひっぱたいてしまった。
こんな形で催眠を解いたのは初めてである。



2006.10.06
いよいよ大きな対戦が決まりそうだ。ここは精進してまじめに体調を整えたい。
タイガーマスクとしての威信をかけなければならない試合なので、12月まで一旦、10年ぶりに真陰の精神追及を休止し、体力造りに全力をかける。
足はギブスも取れ、歩けるようにはなったが、まだ極端な動きはできない。
これからは毎日が合宿とし、万全の体調で望むつもりである。
歴史に残る試合だろうから、責任をもってトレーニングを極めたい。
幸い興義館は最高の練習ができる。
私の場合、サンドバック、キックミット、マット、逆立ちプッシュアップ用の壁、これらが使いやすければ、
信・義・態 すべてのポテンシャルをベストにする2カ月となる。
明日から興義館で合宿に入ります。



2006.09.30
大変順調に行っている。
本物の強さの構築のため、日本の威信をかけたトップシークレットは、今、殻をやぶろうとしている。
掣圏真陰流という、世紀の精神理論の実証に向け、興義館は大変順調に活動しているのだ。
私は正式に「戦闘生理学」という分野を立ち上げた。
日本で果たして、精神性を真に理解しているのは、何人いることか。それだけ海外に遅れをとっている。
催眠に対しての誤解は笑いも出る次第だ。
あまりに変なエセ事件が多すぎたのである。
先日、脳外科の先生と会合させていただいたが、大変興味を持たれて、近い将来コラボすることになった。
脳波や心電図を測ったり、脳内ニューロンの電気信号の流れのなど、恐怖や安定や覚醒の解明を行うのである。
また、あのベニー・ユキーデ氏が興義館に来てくれた。
普通に挨拶をして、懐かしいと話し合っていたが、私の部屋に招き、
「ここは催眠ルームで、私は催眠までやって、精神性を重視した、武士道を復活させようとしている」というと、急に眼つきが変わり、二人で話に夢中になってしまった。
なんとユキーデ氏は同じような理論を持っていて、ことある事に武士道を口にするのだ。
近い将来ユキーデ氏とのコラボがあるかもしれない。
まあどうせ大きくなると、また町人拝金主義者達が群がるのは目に見えているが、私はそこにはいない。
本当に馬鹿らしくなるが、ヤツらを一掃する力を今、着々と着けている。
そんな小さなことより、この精神武道世界を構築することが私にとって一生の大義なのだ。

格闘技も興義館では、久々に桜木や瓜田との、定期的な練習も再開され、その基本的な技術調整は完ぺきに進んでいる。
礼儀、精神、体力、格闘技術のことである。
今、興義館は、他のトップ選手も出稽古に来てくれ、連日最高の練習が出来ている。
彼らも含め、次回あたりから大きく前進する、選手達の姿が見られるであろう。
また今月から入ったプロレスの新弟子は、折原選手のアマレスを基軸にした、実に有効な基本練習にも耐え、すでにもうタックルが形になって来ている。
「強くなりたい。格闘技を教えてください」と自分から望み、本日より、掣圏道の技術部門まで入ってきた。
私はこの館で、心・技・態、全てを育てるつもりだ。
リアルジャパンのプロレスラーは、大変な選手が育つ環境にあり、末恐ろしくなる。
絶対的な練習量とテクニックと精神面、必ず理想通りのプロレス観は達成されるだろう。
私の技術論と精神論がプロレスの体力と合一したら、どうなるでしょうか?
ファンの皆さん。プロレス復興は間違いなさそうですよ。
興義館は、なぜか女性の会員が多い。
規範の厳しい道場ではあるが、なぜだか好んで来るようだ。
最近は女性の格闘熱は盛んなのであろうが、技術も精神面も女性に普及するというのは、ある意味では良いのかもしれない。
興義館で育つ母から、明日の日本が見えて来るからだ。

私の催眠力はどのくらいの実力なのか、皆さんには情報がないであろう。
私は単なる催眠術士ではない。
戦闘生理学という責任から、深く催眠を研究をしている者だ。
戦闘上の催眠は極限であり強烈なのである。
ラポールから観念誘導、暗示に入るが、緊張と弛緩、暗示と覚醒が、極限である戦闘をこなすためだ。
自分で言うのもなんだが、完璧以上に行きついている。
催眠の先生を紹介してくれた方がいるのだが、あまりにもの強烈なこの状況に、目を見張り見入ってくれている。
声の質もあるのだろうが、タイミングや崩し方や極限の状況把握、本当に格闘技に似ているのだ。
先日催眠のテレビを見たが、タレントにテレビカメラの前で催眠かけると、本当に誤解される。
出てきた催眠セラピーの方々や誘導は、正式なものだが、目を見れば催眠の深度は解るよ。

先日、あのカタブツ氏に催眠をかけた。
若くなりたいというのだ。
ストレスを背負った人などは、独特の肌になるので、すぐ解ってしまう。
催眠は自ずと自律神経の副交感神経を上げるので、肌が見違えるように甦ってくる。
化粧ののりが如実に変わってくるのだ。
私は被催眠者の顔に独特の弛緩をかける。これは戦闘生理学とも連動しているのだが、ここでは長くなるので省く。
カタブツ氏は結婚し、若さが欲しいと言って来た。
弛緩から顔の皮膚自体に赤ん坊のきめ細かさを暗示させ、副交感神経と連動させていくのだ。
ヨガの変性意識で瞑想をする人が、異常な若さを保つのと同じである。
一時間の催眠セラピーからカタブツ氏が覚醒し、はっきりと覚めた時、完全に顔が変わっていた。
私はちょっとおかしいと思ったが、まずは大成功である。
若さを取り戻すため、退行催眠までかけていた。
奥でいきなり、鏡を見に行ったカタブツ氏の悲鳴がした。
「ギャー!なんですかこれ?」
「どうしたの?」
「どうしたのじゃないですよ!」
「・・・・・・」
「こんなに若い顔になってどうするんですか?」
「いいじゃない」
「こんなに若い顔で、頭がこれじゃあ釣り合わないじゃないですか」
先ほど何かおかしいと思ったのは、そのことだった。
よく見ると、とっつぁん坊やだ。あの頭に12歳の子供のカタブツ氏である。
「第一私が若くしてくれと言ったのは、顔じゃないですよ!」
「頭は無理だよ。髪に直接催眠なんてかかるわけないだろ」
「そうじゃないですよ!若さ!若さですよ。結婚したって言ったでしょ」
「あ!そうだったのか」
なんだそうだったのかと、私は誤解していたことを恥じた。
「戻して、最初からやってくださいよ」
予約がつまっていたが、カタブツ氏がこのままじゃイヤだというので、また最初から始めた。
2回目は変性意識にすぐに入っていく。
私は顔を戻すため、反対に未来催眠をかけていった。
ところが暗示を与えている最中、運悪く次の患者さんが来てしまい、私は催眠室の戸を開けたまま出てしまったのだ。
次の人には小声で謝り待ってもらったが、その時、桜木の調子悪そうなキックのシャドウを見てしまったのである。
私は思わず大きな声で指導をした。
「ダメだよ!蹴りを押してるよ。抜け!蹴るな!蹴りを抜け!」
桜木の不調は、キックで膝下を押すように蹴っていたのだ。
キックは蹴ろうとすると、押すだけの状態となる。
膝を抜くようにすると、ちょうど良い蹴りとなるのだ。
桜木が最高の状態になった時、ハっと、カタブツ氏のこと思い出し、治療室に戻ったが、思わずビックリした。
お爺さんが髪を抜いているのだ。
私はシマッタ!と思った。
未来催眠の途中で出てしまい、その間、どんどん歳が進んでいたのである。
そして私の指導の言葉が、間違って暗示されてしまったのだ。
「蹴りを抜け」と言っていたのを、
「毛を抜け」と聞き入れてしまったのだ。
この悲惨な状況を何とかしようと思ったが、次の人もおり、とりあえずプラス幼覚催眠で、自分をプレスリーに見えるようにし、後催眠健忘暗示でこれまでのことを一切忘れさせた。
カタブツ氏は感謝して帰っていったが、今頃どうなっているのだろうか。



2006.08.07
新道場「興義館」は25日のオープンに向け、この一ヶ月間、いそいそと、あれやこれやと、忙しく動いている。
先月29日の道場開きは、興義館の地の神である、湯島天神から魂を入れていただいた。
参列した60名もの方々に、道場に魂が入れられる所を見守られながらである。
武道の神である鹿島大神宮と香取大神宮。
地の神である湯島天神と、もう一つ地元にある武道の神様、神田明神にも魂を入れていただいた。
かねてより私は、是非この武道の聖地に道場を興したかった。
北辰一刀流など数々の道場があったこの場所は、武の神田明神、文の湯島天神に見守られる所であったからだ。
文武両道は掣圏真陰流が武道によって、人間形成を目指す目的を貫徹するためにも、絶対的な場所だと考えていたのである。
そして今日、完成まじかな道場に、私の武士道に決定的な助言を与えてくれたゲストを招いた。
戸塚ヨットスクール校長、戸塚宏さんである。
チャンネル桜の企画で、四週にわたる対談ものである。
これは宣伝でも何でもない。
氏のものすごい理論と、私の行って来たものが合一し、
まるで「佐山、お前のやって来たことは正しいんだよ」と後ろからポンと押され、ジャンプ台から確信をもってスタートしたような気分だった。
氏の真の儒教仏教論は科学であり、私のやってきた戦闘生理学と見事に一致するのである。
群れ意識の話まで一致するのに、心なしか胸踊る気分であると同時に、真の仏教や儒教は凄いと思った。
心無い臆病者の子羊達は、氏と私の一致が、スパルタ方式と錯覚することだろうが、
氏も私もそんな次元の低いところにはいない。
ぜひチャンネル桜の対談をみてほしい。
これまで武道を確立するために一人唸っていた。
本当に解りあえる者はごく少数なのだ。
何か佐山が興そうとしていると思ってくれている人はありがたい。
しかし平和ボケ3S政策に冒された者達は、まったく違った興味しか持たず、馬鹿にする者までいる始末。
私は今、催眠も完璧にこなすが、そういった者達に、「この武道は奥深く歴史的ものなんだよ」見とせつけるデモンストレーションでもある。
さすがに目の前で催眠を見せると、平気な顔を装いながらも慌てる。
それでも解らない。催眠は、その奥深くにある、精神実戦の一部にすぎないことを、このロバ達(失礼!私にはそうにしか見えていなかった)は、深く理解することすらできるわけがない。
フロイトは催眠をあきらめたが、うまくなかっただけと言われているのが現在の定説だ。
今では世界のスポーツにかぎらず、あらゆるジャンルでも応用され、日本は完全に出遅れている。
何度も言うようだが、掣圏真陰流は催眠が主ではない。
精神分析学をやって来た私が、たまたま催眠に素質があるだけである。
おかげで精神の仕組みはよく理解できた。
自己催眠=真の精神統一を養成し、無意識の集中力をつけさせるのが本筋だ。
鬱や自立神経やストレスで本当に困っている人は、是非助けたい。
興義館では自己催眠誘導クラス「士禅」を行う。
精神論で出遅れた日本だが、絶対にナンバー1になれる。
武士道と神道と仏教思想が合体した、特殊な無意識は、今また、戸塚氏の理論で最強の物になるという確信をした。
これはタイガーマスク佐山が言っているのではなく、戦闘生理学者としての佐山が言うのである。
興義館は歴史的な武道道場となる。
これから私は格闘技にかぎらず、戦闘生理学という分野を切り開くことになるからだ。
真の強さは静なる強さである。戸塚校長とここまで一致するのかと、番組では本当に驚いている私がいる。
何が起こるかこれから先、固唾を飲んで見守ってほしい。
私の本当の目的は、もっと深く歴史に影響させる所にある。
今に見ていろ。日本は必ず復活する。



2006.08.01




2006.06.20
掣圏真陰流 道場 7月中旬オープン
本当にお待たせ致しました。
いよいよ私の格闘思想の真髄をかけた実践場が出来ます。
格闘技に限らず、すべての物事に対するプッレッシャーや集中力に完全決着します。
修斗以前から、私が目指して来たものは歴史上のものです。
当初は実戦だけを追い求め、最強の格闘技を造ろうとしていました。
色々な局面に対し最も大きな壁に当たったのが精神です。
一からやり直すのに遅すぎはしないと思っていました。
精神分析学から念入りに始め、何十年かかってもやるつもりでした。
途中何年も浪人したのは研究機関をおくためです。
しかしこの間のプロレスの衰退ぶりには驚きを隠せません。これも必ず戻して行きます。

どうすれば人は強くなれるのか、格闘技とは何か、精神に行き着いたとき、格闘性は精神も含め戦闘を基準に置いていました。
もちろん素手による格闘の技術論もコーチングも、私にとって10年前に終わっています。
技術論は無くしたわけではありません。精神論と合体した今、何がおこるか待ちきれません。
ユング式の精神分析理論を基に意識と無意識を活用した、戦闘理論を展開したとき、その無意識は、本能と普遍的無意識と個人的無意識の作用から意識に表れるものです。
何事も堂々と信じるものがある者が強さを得る基準を持つ。真陰流精神術の一段階目の基準「陰」の存在です。
普遍的無意識は歴史や宗教にまで行きます。
私が歴史の真実に熟知しているのはこのためなのです。
強さの作用を構築する術と、基準(無意識)を熟知しなくてはならなかったのです。
二つを統合したとき、武士道に行き着きます。
武士道による無意識の基準値は「義」です。
武士道を科学的見地に基づき、現代の世界価値観に合わせたもの。
掣圏真陰流はおそらく皆さんの予想をはるかに上回る歴史上の武道になるはずです。
掣圏は素手(ナイフまで考えております)による戦闘術。
真陰流は精神術となります。

武士道 掣圏真陰流 道場 「興義館」

「掣圏コース」(実戦格闘術) 武士道空手コース・真陰コースを併用できます。
一般マンツーマン方式・総合実戦 月曜〜土曜
バック・ミット・スパーリング

「武士道空手コース」
クラス方式・グローブ空手ですが、総合実戦での基本も行います。週二回

「真陰コース」
スーパー禅(真陰流式自己催眠啓発)クラス方式・週二回

「リアルジャパン・プロレスラー養成コース」
全日内弟子制度

オプション「戦闘生理学催眠」

オプション「ヒプノセラピー」



2006.06.16
スーパー禅(仮称)

掣圏真陰流は真の強さを当たり前のごとくこなす。
義ある強者を造ることは私に課された歴史の責任である。
打・投・極 もはや技術と指導力が一流を行くのは当たり前である。
真の強さは技術や体力ではない。無意識に眠る正しいと作用する義の反応なのだ。
これまで妥協を許さない私の練習法は厳しいとされていた。
プロに対する体力的トレーニングは、最大限を導くためにアドレナリンを生かした、見た目にも大変厳しいものであった。
それが必要なくなる。いやそれ以上のものとなるのが特殊自己催眠法「スーパー禅」である。
意思の作用を意識から行うのではなく、無意識が平然と行ってしまうものだ。
かといって柔なものを私が造るはずがない。義と誘導が一体となって最強が訪れる精神の道である。
世の中、飽和状態に義の全てを無くしてしまった我々は、確かに平和ボケの中に、宗教的モラルを失い、宗教を拒否しているくせに、金が神になってしまった。
社会の中で最も重要なのは精神なのだ。精神性とモラル性は何が関係あるのか。
キリスト教に新訳聖書、イスラム教にコーラン、ユダヤ教にトーラの存在があり、それらに格とした教えがあるのに対し、全てに神が宿る八百万神思想を持つ私たちが、武の中に仏教と遭遇した安らぎがモラルを構築してきた。義の存在を確固なものにしたのである。
変性意識(催眠誘導時)は無意識に構築する、正しいと感知したものに働く。
心から変える。心を変え誘導によって強さは現れる。
強さとは、道で困った人を助ける事と、戦いで退かない事に何ら変わりはない。
構築と信じる力は誘導を受けたとき、素直に最強になる。
武と士と道が一体になり義になるとき、自己催眠と合体し不動の精神はより強く構築されるからだ。
掣圏真陰流が行う自己催眠誘導「スーパー禅」は、真の強さを導く。

掣圏真陰流は現代科学に武士道という、最高の構築を取り入れた精神術である。
いよいよ掣圏真陰流「興義館」道場が出来る。場所取りに少々時間がかかったが、それほどかねてより私が望んでいた、その昔、侍の剣術道場があった所に聖地を求め、ここぞという場所にした。
私の全霊を懸けた現代武士道はここから全てを発信する。
世紀の精神術となるだろう。
武道家やアスリートだけではない。全ての人が背負うストレスや精神障害にも対応する。
興義館には催眠セラピー室も完備している。
日本が一番遅れている精神制御部門を、最高の基準「武士道」で、世界bPの精神世界へ一挙に導くのだ。
本当の武士道の深さが世界に理解されるだろう。

すでに何百人の人がテストで体験済みだが、デモンストレーションとして、この禅を体験したい人は一報ください。
ストレス、自律神経失調、更年期、自律神経から来る肩こり腰痛なども、精神障害くらいのうちに早めにどうぞ。
アスリートに行うものは暗示において別物ですが、元々掣圏真陰流は戦闘精神生理学という、ある思想の基に私が特別に開発したものです。
もっとも過酷な状況を想定し、安らぎと集中を科学したものなので、一般の精神障害くらいは基本となります。
もちろん催眠は古代エジプトから存在したもので、私が開発したものではありません。重要なのはどう誘導し、暗示するかなのです。
他者催眠、自己催眠、禅、戦闘精神生理学は、この道場を基点にどんどん進化していきます。

名前は掣圏真陰流「興義館」 場所は御茶ノ水、日時は7月中旬オープン。
一般会員による、武士道クラス。武士道空手クラス。スーパー禅クラス。一般ヒプノセラピー。
リアルジャパン・プロレスラー養成クラス。


2006.06.06
拝啓
初夏の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。

掣圏真陰流の武の精神追及は佳境に入り、急速に進んでおります。
心技体が一体化し、かつ歴史上、二十一世紀にふさわしい新武道は、古来の武士道のDNAを継承し、科学をも駆使した精神武道でございます。
三十年前、総合実戦格闘技を創始したときに目指したものは、戦い方こそ違えども、精神性を伴う相撲のようなものでした。私の追及はまったく変わっておりません。
「義」と「戦い」 この全てが若者の精神を創ってくれます。
実戦場の道徳と、人生の道徳は義によって共有され、同じようにその人間形成も義によって共有されていきます。
我が国の宗教性は武士道と交わることにより、独特の精神文化を築いてまいりました。
鎌倉武士道、吉野時代の武士道、室町時代の武士道、江戸時代の武士道、明治の武士道、昭和の武士道。
時代の背景からも現代に興す武士道とは、二十一世紀という世界観を見据えて構成させなくてはならないものです。
武士道は宗教ではありませんが、規範心と共にあるもの。私たちはそのDNAを共有し、最高の文明を授かってきたと心得ます。
武士道思想と現代科学がもたらす驚異的な掣圏真陰流は、もはや精神の中枢部に触れております。
確信を完成し実践するには、道場からの発信となりますが、ただ今、掣圏真陰流の精神作用を促す専用道場を造っており、催眠セラピーをも兼ねた完全なる武道精神場となります。
武道が精神を育成し、強さを備え、心を安らがせ、治療をも出来てしまうことが、当たり前の時代が来ます。何故なら真の武道家こそが、精神の極地をわきまえた存在でなくてはならないからです。
敬具
リアルジャパンプロレスでは来る六月七日水曜日 午後六時三十分
一周年記念として、後楽園ホールにて試合を開催致します。
初代タイガーマスクの試合、掣圏真陰流ジャケトマッチトーナメント他、真剣を刃引きした刀による、新剣術の撃剣トーナメントも同時に開催致します。

                                   掣圏真陰流 佐山 聡

2006.03.20
心得るべし事

侍とは何か、最初に「武」そのものを理解しなくては、とても武士道精神は身につかない。
「武」とは戈(ホコ)と止(あし)で構成されている。
戈とは槍などの武器のことで、武の原語は戈を持って足で堂々と前進するという姿だ。
このことからあくまでも「武」とは雄々しいとか強さを指す。
近年、止(あし)を「止める」と解釈し、武器すなわち戦いを止めるという意味も形づけられようとしている。
しかし原語の意味からも、武がリベラル的な解釈から意味されたものではなく、敵の戈を戈で止める防衛を指すものだ。
決して武からリベラル的な意味合いを定義づけてはならない。
あくまでも雄々しき侍の魂である。

武士道を習う者は「武」をよく理解し、本質を覚悟しなくてはならない。
真の意味に誇りを持たない限り、武士道における「勇」は表われるはずもないからである。

一方「士」は徳を修めた立派な男子を指す。
武による徳を修めた者を侍というのだ。私は筆でサインを書くとき、好んで「武徳」と書く。
「士」の無い武は勇ましいだけのもので、成り上がりやハングリーや、匹夫の勇でしかない。
それらはしょせん勝ち得た時に消えて行き、薄っぺらな自己の経験を頼るだけの姿をさらけ出す。
「士」を陰に植えつけたサムライは、どこまでも勇を持ち続け前進する。
また「士」があるから「武」が広大するのだ。

戦後、ウォーギルトインフォメーションによって精神性を無くした現代、サムライのイメージは多くの人が理解できないものになってしまっている。
映画や時代劇で見る侍は、ポピュラリズムとリベラリズムを意識し、「義」を貫く者ということは美化はしているが、真の侍像は表わしていない。
強さとは、戈を持って堂々と前進するというものである。
大いなる大義を背負っている者の威厳である。
それは義を外した者や、身勝手な者に対しては、大いなる恐怖とさせる。
誤解のないように、恐怖とはあくまでも秘めたる威厳である。
義をつらぬく威風堂々とした、礼儀正しい態度は目に正義と狂を併せ持つ。
現代は狂という言葉を悪い意味にされているが、侍の時代は良い意味にとらえられていた。
匹夫の勇が脅しで与える怖さどころではない。
義のために果てしない武信を秘めた、どこまでも深い侍の威厳なのだ。
精神性を無くされてリベラルに走らされ、将来起こることも見えずに追随する姿。
リベラル漬けにされた現代日本のメディアに、侍の本質を伝えることは出来ないだろう。

武士道精神とは戦闘精神の心得から生まれた規範である。
その姿を理解できない限り、真のサムライはイメージできない。
任侠道でもないし紳士道でもない。わが国が生んだ独特の精神文化なのだ。
陰は果てしない勇を秘めた意思「最強」をもたらす。

現代における侍像とは、服装と身なりは地味ではあるが、きちんとしていて、礼儀に秀で、威厳ある風格を持つ者。
威厳は侍としてのものであり、任侠や不良のものとはかけ離れる。
金髪、茶髪、イヤリング、タトゥー、時代劇にもそのような馬鹿が登場するが、どんな姿か想像して見てくれ、まともな侍にそんなのはいない。
時代の彼方に平成の馬鹿と呼ばれるだけだ。
真の侍は昔も現代も、普段は礼儀正しく規範に優れ、義を外す者や敵に対しては、驚異的な威嚇力と行動を勇とする。
国体を守る武士の覚悟は行動に表わせなくては何もならない。
まずは己の態度から造っていくことが重要である。
若い諸君には精神的「義」の構築と、弱さへの免疫を造っていき、おのずと信・義・態が備わる者になることを目標とするものである。
一番よりもみんな仲良く並んでゴールだとか、脳内ホルモンのエストロゲン、アンドロゲンを無視させられ、男女同じに育てられるという、歴史的な馬鹿教育に冒されている君たちが自立するのは、結果的に精神性の崩壊につながった無意識を、真の武士道で復活させるしかない。

最後に「道」とは、当時、侍の時代なら藩やお家を守ることである。現代なら国ということになる。侍は威厳と自己の見本によって、国体を守る規範のリードをする者である。

                                   掣圏真陰流 創師 佐山 聡




2006.03.09

「義」は漠然と正義という解釈ではなく、義理でもないし、ましてや男気でもない。
侍にとっての絶対的な精神の支柱である。
ある摂理に向かって衝動する、最も強い脳神経の主軸であるのだ。
掣圏真陰流は新訳武士道として真の「強さ」を導くために、武士道精神の復古と、最新の心理学(精神分析学・催眠・大脳生理学)や、世界観を分析し、日本人が失った誇りや規範心を構築するための術である。
真陰流を学ぶ上で「義」は大変重要な部分ですのでしっかりと理解してもらえれば幸いである。
私はよく礼儀礼節をいうが武士道は紳士道ではない。かしこまってお行儀よくするためのものではないのだ。
侍の魂は「武」の背景によって構成された士道である。
和にかしこまるものではないし、横暴に振る舞ったり、横暴の中の礼儀でもない。
義は勇をもたらし、義の守護のために、武をもじさない覚悟こそが侍の作法である。

単に「無」とは、何も煩悩が無く、緊張や驚きという感覚をも消し去るものである。
心地よく優雅な状態でそれが行われれば、精神的に何も無いロボトミーのように感情や衝動も起こらない。
侍が「儀」に向かうとき、意思が無ければ物事に対処する事は出来ない。
「不動心」とは、強力な煩悩に対しても心地よく優雅な状態で意思を通してしまう「強さ」をいう。
それは深い世界観から生じる「無」と合体しなくしては達成できない。
煩悩を拒絶するための「落ち着き」だけでは、油断につながるだけなのだ。
また、全てが予知、あるいは見えていれば人は「不動」の感覚でいられる。
「義」は全てを見せてくれる存在であり、全てとは潮流の継続への摂理「死生観」を指す。
「不動心」とは「義」が見えている感覚から来る「強さ」の感覚なのだ。
「義」とは潮流摂理への、死の覚悟が見えていることとなる。
「義」への死生観は、自殺などの死生観などと、まるで中身が異なる。
また侍の死の覚悟は、匹夫の「勇」たる無頼のものでもない。
意思があり、深さがあり、広さがある、真の「不動心」者たる者の「陰」から発祥されるものなのだ。
何事にもブレない優雅な「不動心」は、「義」を持つ人格者から生まれ、一旦「義」ある時は、爆発的な「勇」をもたらす。
この時「不動心」の脳波であるアルファ波やシータ波は、意識と無意識の「蓋」をリセットし、無意識に構築された「義」を奮い出させる。
ちょうど、パンチを出す前の柔軟な筋肉に似ている。最初から力を入れた筋肉からでは、強烈なパンチを出すことはできない。
優雅に力を抜いておくことで、いざという時、瞬時に高速パワーと化すことができるのだ。
「義」と「不動心」とはそういう作用をする、特別な構築関係である。

武士道は宗教ではない。
形而上に導かれるものではなく、自己の覚悟で「義」を構築し、その「義」を貫くための「不動心」を得るため、侍として人間形成をしていくものである。
キリスト教にイエスの存在があり、イスラム教にムハンマドの存在があり、仏教に釈迦、ユダヤ教にトーラの存在があるように、武士道には「義」があるのだ。

「今」とは、あなたの「今」でもあり、地求の裏側にいる人達や動物や、虫や植物や水、量子カ学的に空気や粒子も、全てが「今」に位置している。
そればかりか何万光年先に見える星も、存在としては同じ「今」という時空にあるのだ。
ビックバンの爆発は素粒子よりも小さな、またはそれ以下の物質の噴出で始まった。
その時、中性子とマイナス陽子等がぶつかり合い、石などの物質が生まれ、星などになり、地求には水や空気が発生し生物も生まれた。
他の星では空気や水もいらない生物がいるかも知れない。どこかに・・・。
その星も、そのいるかも知れない生物も、現在の私たちと共有する今に位置しているのだ。
たとえ宇宙に歪みがあろうと、今のあなたも、あの何万光年先の星も、すべてビックバンから発祥した、時空潮流の先端なのである。
石などの物質は半永久に宇宙に存在するが、我々生命体は個々に死ぬ。
もしかすると宇宙には、永久に死ない生物のようなものがいるかもしれないが、私達に与えられた時空、地求には、死なない生物はいないようである。
しかしそんな生物も継続をしながら、時空の最先端に位置し続ける。
ようするに生命は子孫への継続を果たし、半永久物質である石のように、流れる時空に位置し続けるのだ。
その中で、あらゆる生命は不思議な機能「本能」を持ち合わせている。
滅亡しないために、大切に育て育てられるための継続の機能だ。
潮流は私たち生命体に本能という感情を与えた。継続と感情は一体といえる。
生命体は子孫を愛しみ、言葉をしゃべれない虫や植物でさえ子孫を残す愛しさ、あるいは変化がある。
継続のない石は石を生まず、その変化は必要ない。
もしかすると創世からすれば、感情さえいらない強い物質ということになるかもしれない。
弱い物質である?生命体は、子が親を慕い、男女は愛し合う。
なぜ自分の子は命に代えても可愛いのだろうか。
潮流の存在を考えたことはあるだろうか。
先頭に位置する「今」とは、宇宙に果された創世からの意志「摂理」なのである。
なぜ普遍的無意識という群れ意識はあるのか。
共通的とも全体的とも言われる無意識である。
貴方が生まれ育った所には、独自の言語や習慣などが存在し、その地域の共通的な無意識が心に育っている。
例えば、高校野球などでは、地元を応援するし、ワールドカップでは自国を応援するであろう。
普遍的無意識は各宗教にも当てはまる。
人の深層心理に普遍的無意識がある以上、人類はあるー定の群れ生物なのだ。
そのように進化しなくてはならない、弱い生物といえる。
個人よりも家族、家族のために群れと、継続を守るために無意識に群れを固める生物なのだ。
文化を持ち社会的に守られる人間の心とは、実は弱さをカバーし継続を果たす真理であり、子孫や親を守りたいとう感情は、実は機能なのである。
民族には、優秀なる民族と、下等な民族があるというのは、普遍的無意識を乱さない、節理ある継続の人生のことである。
リベラル過ぎて自由を勘違いしたり、「らしさ」を取るという行為は、普遍的無意識を消したり、結果「摂理」への免疫を作れず、不良や犯罪を横行させ、生態系に変化をおよぼし、潮流を弱体化させるだけである。
無意識である氷山の海面下、最も下の位置には本能があり、その上に群れ意識である普遍的無意識が形成され、最上部に個人的無意識が位置している。
「義」は継続のための個人的無意識には入らず、普遍的無意識に構築される。
一般にはこれを社会的責任感とでもいうのだろうが、「義」は少し違う。
新訳武士道において「義」の頂点は、この潮流を継続する責任である。人間がつくる、人生をエンジョイするための社会とは異なる価値観なのだ。
弱い生物「人間」にとって、普遍的無意識の乱れは潮流を崩す行為である。
本来、人は人を殺すことも、その肉を食うこともできる。盗みも強姦も何でもできる。
社会は法と宗教でそれらを許さないだろう。
「義」は普遍的無意識の観点から、継続の潮流を乱すものとして、それらを許さないのだ。
私たちの人生が継続への摂理なら、生は継続するためのメモリーということになる。
継続を果たす死は充実するであろう。
群れというのが、個々の命を守るために生まれた、普遍的無意識であるとするなら、その実態は継続への力を得るために、本能から生まれた摂理である。
継続の本能感と、群れ意識を乱すことのない信念。「義」とはこの潮流を守ることが軸になる。
おのずと何が道なのかが解って来るであろう。
潮流を導き、継続を乱すものは何か。
人にとって普遍的無意識が、いかに大切なものかが、お解り頂けるだろう。
子供、親、兄弟、日本国、世界。

武士道が創世され開花した深層の奥、真理を求めて真陰流は現代に発進する。
「義」を興すための道場「興義館」は、単なる格闘技の道場ではない。
普遍的無意識を守る精神が、どんなに心を強くし、人間的にも形成されるか、この道場によってお解かり頂けるであろう。
真陰流は科学に裏打ちしたものを含め、武士道の精神的技法を現代によみがえらせている。
歴史は言うだろう。敗戦から空白化され荒廃した心の病を、三千年の足音と共に「復活しろ」と、先人達の見えない力が奮い立たせた精神術だと。

「義を見てなさざるは 勇なきなり」
武士道の代表的な言葉だ。
武士道にとって「義」は無くてはならないものである。
侍が潮流のために起こす行動「勇」は、「義」によって正しく構築された陰から発せられる。
「義」の魂が純粋に陰に構築された姿こそ、自然に「勇」が衝動するのだ。
かつて「義」に対しての精神的構図は、自からの腹を切ってまで貫徹されたものであった。
現代はグローバル化された秩序が広がり、自由が保証され、国体が一体となって、難を乗り切るという時代ではない。
民主主義という世界的基盤が、自由を保証している時代である。
自由でいたいという者に、義を強要してもはじまらない。
しかし我々は風紀としてそれらをリードする、潮流の覇者でなくてはならないのだ。
「勇」はそういう時に使われるものである。
行動は種類に分けられる。
まず静なる気で待機しておき、心に余裕を持つ。
よく間違われることに、キレることと、「勇」なる行動との違いがある。
キレるとは余裕の無くなった者が、訳もわからず起こすテストストロンの作用による怒りだ。
一方「勇」なる行動とは、潮流「義」を堅持するための、使命観から起る衝動である。
よく何でも怒る人がいる。わがままな人もいる。
それらは「義」から衝動する、怒りであろうはずはない。
侍の怒りは潮流を反れた行為に対してのものに生ずるものだ。
普段は礼儀正しく穏やかで、心に余裕を持つ侍の態度でいる。
余裕とは強さの表れであるからだ。
前にも述べたように全てが見える人に現れる脳波なのである。
侍は「義」を見た時に、直ちに衝動するのだ。
正しいテストストロンの発祥なくして、世の中はおさまらない。





2006.03.02
精神武道の世界
掣圏真陰流 創師 佐山サトル

創造の瞬間、ビックバンの爆発から素粒子の時空は潮流となって、マイナス陽子と中性子がぶつかり、限りない物質が生まれ「今」がある。
現時空の全てであり、今もなおそのエネルギーは潮流となって流れ続けているのだ。
私達は永遠に物質として存在する石などではなく、生命といわれる物質の構成である。
個の命が絶えて粒子に帰る生命体は、継続という摂理を構成し「今」を通過しているのだ。
大きな潮流の「今」を生き続ける絶対的な「摂理」こそ、私たちの根底に構築される「力」である。
先人が進化の過程で、言葉を喋れるようになって約三十万年が経つという。
言葉は現ヒュマノイドの脳に1400億ものニューロン(神経細胞)を作り上げ、地球内動物との知的能力差を決定的なものにしてきた。
最大のハードを得た我々人間は、約8000年の経験から取得した社会と文化を背景に、現在の精神構造を構築したのだ。
動物は潮流継続の大部分を「本能」で行なうが、人間は複雑極まりない社会脳を持たなくては、生き残れなくなってしまったのである。
特殊な脳を得て全地球人口六十五億もの精神質量が交差する中、生き抜く力なくして継続はない。
そのため私達の意識は個人的なものや、家族的なものに止まらず、民族や宗教観にまで達し、現在の共通的潜在意識にまで高められてきたのである。
戦いと平和を繰り返しながらも、絶対に縮まらないこの摂理的「小潮流」観。
宇宙は膨張し続け、大きな潮流と小さな潮流が組み合わされた「今」を同一方向へ流れ続けている。
潮流継続を果たしていく我々の真の姿とは?またどう生きるべきなのか。
赤ん坊は自動的に母親のミルクを頬張り、親は母性本能で子を愛し、子は親を慕い絆が結ばれ、子孫継続のために社会を順応する力を持つ。
摂理は家族や親族から、友人、仲間、同じ地域に住む人々の共同体へと広がり、共通的無意識という社会を構成し潮流を生き抜くことになる。
国の体制が協力し合って摂理を果たすことであるとするなら、その体制を基本から堅持することこそ、我々に果された潮流への同一化であるはずだ。
愛や平和は必要不可欠である。しかし永劫の摂理を崩そうとする「今」という空間だけの愛や平和は、潮流にとって逆作用となってしまう。
人間の最大の敵は人間であるが、摂理にとっての真の敵は「弱体」である。知恵があるからこそ逆に、愛と平和だけでは生き残れない。
知恵があるからこそ、人間は動物以下の行動も取ってしまうのである。
生存の基準は複雑にからむルサマンチンの、魑魅魍魎たる社会を正そうとするよりも、摂理を絶やさないための、潮流への「力」なのだ。
「弱さ」とは潮流を妨げるもの。
愛でいえば浸かっていたいもの。
「強さ」とは潮流への自然心。
愛でいえば与えることである。
しかし何でも与え続けてしまうと、浸かる「弱さ」へ順応してしまう。
潮流の継続を示唆する愛こそが「強さ」なのである。
これを武士道では「仁」という。
「慈悲」や「寛容」も同じように働かなくてはならない。
複雑な社会を構築する人間であるからこそ「弱さ」が潮流の崩壊を招くのは、歴史が証明している。
一見「弱さ」には見えない、暴力や不良等の反道徳行為も、潮流の観念からすれば、流れの邪魔をするただの「弱体」の表れに過ぎない。
一時の快楽や荒廃に走り、摂理を垣間見ない諸刃の精神である。
現潮流を責任で生きる「個」としての「精神構築」から「強さ」は生まれる。
継続にとっての「強さ」とは精神性であり、物質が主体ではない。
潮流継続の精神基軸がお金などの物質的なものであった場合、摂理は「弱さ」へと荒廃し、未来はあろうはずもない。
知恵とは生存、愛とは継続、強さとは生存と継続を堅持するためのエネルギーなのだ。
「知・仁・勇」の精神である。

強さとは
思考のさらに背後にある思考といわれるのが、愛と恐怖の観念である。
愛を守るために恐怖に打ち勝つ姿は、潮流を生き抜くための「精神構築」、「強さ」から発せられる「勇気」だ。
あなたの「強さ」は「今」にかぎらず、未来永劫と一体化する行いなのである。
正なる規範を導きさえして、体制を堅持させる「個」としての「精神構築」が、知的動物に課せられた摂理なのだ。
武士道精神の代表的な言葉に、
「義を見てなさざるは勇なきなり」というものがあるが、逆の意味も広く持ち入れられていた。
「義」のないところに、「勇」を出してはならないという戒めである。
この姿こそが「精神構築」の基本である。
武士道の基軸とは、国体の堅持であった。
当時なら「藩」や「お家」である。サムライは命を賭け、藩を守り民百姓らの規範となり、当時の潮流を継続した。
勿論、鎌倉幕府政権下での御成敗式目あたりから、それまでの武勇だけを誇るサムライから、忠誠を誓わせるための様相を呈してきたが、命を賭けてまで規範を全うする文化が独自に育てられ、史上最高とまで言われる「武士道」という精神文化が築かれたのだ。
それは我々の潜在意識に現在も刻まれている。
現代においての武士道も、潮流を継続させるための、規範の導きを「勇」と同一化させる「強さ」への意志でなくてはならない。
封建制や男尊女卑など、現代にそぐわないものは姿を変えていくのは当然のことである。
武士道の継続とは制度ではなく、精神性を基軸に流れて行くものであるからだ。
武士道精神の「真の強さ」を導く「精神構築」は、潜在意識に絶対的なものとしての存在「義」である。
「義」とは、直接的な正義そのものでもないし、義理などでもない。
この七百年ものあまりに育てられた、正なる一点の崇高な潜在意識である。
武士道は宗教ではない。神の存在に橋渡しをする人がいるように、「義」が、ある正なる存在に「忠」を貫徹する「精神構築」であるからだ。
正なる存在が潮流であることはいうまでもない。
人間は本能のみに動かず、意志を持つ生きものである。潮流を活かすも殺すこともできる。
武士道の教えとは、人を活かす活人であり、潮流を運ぶための「強さ」なのだ。
あたかも一神教の教えで、小さな時から毎週教会へ連れて行かれ、神への信心の元、導きが生まれ、挨拶の仕方から、道徳、正義、態度、人を助けること、守ること、愛国心等を神父や伝導士に徹底的に教え込まれる姿がある。
しかしながら新渡戸稲造の「武士道」によれば、騎士道精神は騎士が存在しなくなった後、キリスト教に回収され、存続したという。
したがって、こうした態度は騎士道精神の発露であろう。
一方、我が国の武士道精神が宗教に回収されなかった為であると新渡戸稲造氏は言う。
困った人がいるときに助けることや、あらゆる宗教が正す、人の嫌がることをしないというゴールド・ルール、正義、社会ルールなどの規範の堅持は、やがて彼らの潜在意識に入り込み、社会秩序が構成され、正義となって「強さ」が生まれるのである。
潮流継続の「義」なる力であり、その流れにそっての自由・平等・博愛の啓蒙思想は、潤滑油となるだろう。
しかし、何もそれらが構築されてない者が、愛と称し、自由・平等・博愛を唱えれば、何でも自由、何でも平等と履き違いをしてしまい、潮流を衰退させるだけの「弱さ」となってしまうのだ。

武士道は「神道」「仏教」「儒教思想」「朱子学思想」等から、同じように社会規範が育っていった。しかも封建制からの、命をも賭けて生まれたものである。
神の存在する宗教ではないが、自己と潮流とが精神を一体化させる「精神道」なのだ。
「強さ」は「表」の姿ではなく「内面」から本来の体制を構築することで生まれる。
武士道の作法は内面にある。
「恥」や「遠慮」、「出しゃばらず礼儀正しい姿」
すべては「真の力」を得るために、秘められた意志を構築させ、表に出すための法則なのだ。
どんなに強い者も、どんなに美しい女性も、内面から出てくる「強さ」や「美」にはかなわない。
精神世界とは継続への力を要す個の構築であり、潮流が私達に与えた能力である。
「強い」と念じれば強くなり、「美しい」と念じれば美しくなるものでもない。
そこには精神の法則があり、真陰流はそれに則り構成した「術」を持つ。

武士道は命をかけた剣術の面からも、内面性の見地で造られて来た。
古来、物部氏の時代から「魂」信仰は存在し、「魂振り」「魂鎮め」の儀式が行われていたという土壌がある。
室町末期に愛洲移香斎によって「影流」が創始され、精神性武道が重んじられていく。
移香斎は宮崎の洞窟にて修業し、蜘蛛が動く影を見て剣の極意を得た。
代を経て柳生但馬上により新影流が造られ、活人剣として広く武士の思想となっていく。
真陰流は武士道思想を根底から見つめ直し、「真の強さ」を追求した「精神道」である。
真の「強さ」とは暴力や意思そのものではない。潮流を未来永劫に流し続ける個としての摂理を、内側から構築して行くものだ。
「くつろぎ」「安らぎ」「安定」「無」「不退」「超意識」を精神に植え付け、自己の器を造るもので、武士道のDNAを採取し、その精神基軸を現代に蘇らせた、21世紀の潮流を継続する精神の姿なのだ。
その人間像は規範心を秘め、余裕に満ち溢れ、「強さ」のための本当の愛を知っているものである。

精神道 真陰流
真陰流理論 精神の法則
自己とは器(うつわ)である。
真陰流の「陰」の旁(つくり)は「今(こん)」と「云(うん)」とに従う。(白川静氏による)
「云」は雲気。ある霊的な力を象徴するもので、現世の我々にとっては、しまわれた「気」潜在意識のことである。
「今(こん)」は壺形に用いる「蓋(ふた)」の意。
「陰」とは雲気を蓋で密閉するということである。
「今(こん)」である蓋の「表」は顕在意識の世界であり、内側は密封された潜在意識である。
真陰にとって、その蓋は「気」の通気性があるもので、顕在意識と潜在意識が通過し合う、「信条」や「観念」で出来た特殊な「ろ過装置」である。
表の情報を「信条」によって「ろ過」し、壺の中に「私情報」の「潜在意識」として蓄え、蓄えられた「潜在意識」は、外の情報を受け、蓋によって振り分け選び出されて行動となる。
もし蓋が無ければ、情報はどんどん入り込み、外からの入力が「疑い」も「信じる」ことも「洗練」もされることなく蓄まって行き、そのまま表にでてしまう幼年期の子供のようになってしまう。
顕在意識と潜在意識を分ける「信条」の「蓋」こそ、自己構築の要であるのだ。
自己の潜在意識を創造し、その雲気をまた「蓋」により観念として意識に上げていくのである。
意識する自身の現在は「信条」や「観念」で蓄えられた大きな雲気の、わずかな表れでしかない。
雲気が意識に上がってくる時に、観念という感情を作りだし、自己ではコントロールできない波動となって影響をさせる。
真の強さを構築する精神の波動は、
「振れ」(精神の不安定や恐怖の波形)・「無」(安定した状態)・「響き」(高揚心の波形)
から、「超意識」(完全に集中し乗り切った波形)へ上がっていく。

例えばAという敵が目の前にいたとして、三つのパターンを考えてみよう。

「蓋」という「ろ過装置」が構築されてなく、過去の情報や自分の体験から敵へのイメージが、怖いという観念で潜在意識に運ばれていた場合。
その雲気は再び「蓋」を通し、顕在意識に運ばれ「振れ」を与えてしまう。

怖いという観念が雲気に運ばれようとしても、「蓋」という「ろ過装置」が「無」に構築されていれば、「振れ」も「響き」もない「強さ」への第一思考となる。
真の強さとは「響き」を得る精神の高揚のことではない。勝手にそうなってしまうものである。
蓋と雲気を構築した全体像から意識に表れる自己の器「陰」なのだ。
観念を構成する「蓋」には、いくつもの層で対応できるモードがあり、敵に対しての戦闘モードは「倒す」集中での法則において精神を統一される。
精神統一は普段の心的訓練で「無」に入ることを「蓋」にリセットする法則で導かれて行く。
リセットとは「蓋」の「ろ過装置」に溜まるストレスなどを、ニュートラルにすることで取り除き、健全に導くことである。
「無」は潜在意識に直接入り雲気の構成を植えつけていく最初の段階であるのだ。

精神の波形は通常「常波」であるが、「振れ」をみせたとき「退波」へ移行し、やがて「窮波」へと追いやられ、「蓋」は固まってしまう。
反対に「響き」は強さへの波形を表し、「乗波」となって意欲に乗って行く。
通常「退波」を出した場合、いきなり「乗波」へは移行できない。
「無波」が表れ「乗波」「超乗波」へ移行するのだ。
真陰流は「超乗波」へ導く「精神道」である。
それは法則によって「蓋」の構築と精神統一で成せるのだ。
「真」は「陰」の完成された「力」で表にでる姿の意。
「陰」は潜在意識と潜在意識を構築する意。
「流」は堅持する潮流の意。



2006.01.09

「義」は漠然と正義という解釈ではなく、自己の絶対的な精神の支柱です。個のためのものではない、ある摂理に向かって衝動する、侍にとって最も軸となる脳神経なのです。
掣圏真陰流は新訳武士道として真の「強さ」を導くために、武士道精神の復古と、最新の心理学(精神分析学・催眠・大脳生理学)や、世界観を分析し、日本人が失った誇りや規範心を構築するための術です。
真陰流を学ぶ上で「義」は大変重要な部分ですので、しっかりと理解してもらえれば幸いです。

単に「無」とは、何も煩悩が無く、緊張や驚きという感覚をも消し去るものです。
心地よく優雅な状態でそれが行われれば、精神的に何も無いロボトミーのようで、感情や衝動も起こりません。煩悩や障害に対面した時に、何事も無いように楽な状態にはなれます。しかし侍の「儀」に向かうとき、自我があって意思も無ければ、物事に対処する事は出来ません。
「不動心」とは、強力な煩悩に対しても、心地よく優雅な状態で接することの出来る「強さ」のことを言います。自我という意識があって、煩悩から「不動心」になるには、結果が見えていなくてはなりません。煩悩を拒絶するための「不動心」だけでは、油断につながることになるからです。全てが予知、あるいは見えていれば「不動」の感覚でいられます。
「義」は全てを見せてくれる存在です。
「不動心」は見えている感覚の「強さ」なのです。
「義」と「不動心」から「強さ」は生まれます。この三者は一体です。
何事にもブレない優雅な「不動心」は、「義」を持つ人格者から生まれ、一旦「義」ある時は、爆発的な「勇」をもたらします。この時「不動心」であるアルファ波やシータ波は、意識と無意識の「蓋」をリセットし、無意識に構築された「義」を奮い出させるからです。
「義」とはそう言う作用をする特別な構築です。
武士道は宗教ではありません。形而上に導かれるものではないからです。
自己の覚悟で「義」を構築し、その「義」を貫くための「不動心」を得るため、人間形成をしていくものとお考えください。キリスト教にイエスの存在があり、イスラム教にムハンマドの存在があり、仏教に釈迦、ユダヤ教にトーラの存在があるように、武士道には「義」があります。

「今」とは、あなたの「今」でもあり、地求の裏側にいる人達や動物や、虫や植物や水、量子カ学的に空気や粒子も、全てが「今」に位置しています。そればかりか何万光年先に見える星も、存在としては同じ「今」という時空にあります。
ビックバンの爆発は素粒子よりも小さな、またはそれ以下の物質の噴出で始まったとされています。その時、中性子とマイナス陽子等がぶつかり合い、石などの物質が生まれ、星などになり、地求には水や空気が発生し、生物も生まれました。
他の星では空気や水もいらない生物がいるかも知れませんね。どこかに・・・。
その星も、そのいるかも知れない生物も、現在の私たちと共有する今に位置しています。
たとえ宇宙に歪みがあろうと、今のあなたも、あの何万光年先の星も、すべてビックバンから発祥した、時空潮流の先端なのです。
その中で石などの物質は半永久に宇宙に存在しますが、我々生命体は個々に死にます。もしかすると宇宙には、永久に死ない生物のようなものがいるかもしれませんが、私達に与えられた時空、地球には、死なない生物はいないようです。しかしそんな生物も継続をしながら、時空の最先端に位置し続けます。ようするに生命は子孫への継続を果たし、半永久物質である石のように、流れる時空に位置し続けるのです。
あらゆる生命は不思議な機能「本能」を持ち合わせています。
大切に育て育てられるための継続の機能です。
潮流は私たち生命体に本能という感情を与えました。継続と感情は一体といえるのです。生命体は子孫を愛しみ、言葉をしゃべれない虫や植物でさえ子孫を残す愛しさ、或は変化があるはずです。継続のない石は石を生みませんから、変化はいりません。
もしかすると創世からすれば、感情さえいらない強い物質ということになりますね。
弱い物質である?生命体は、子が親を慕い、男女は愛し合います。
なぜ自分の子は命に代えても可愛いのでしょう。
潮流の存在を考えたことはありますか。
先頭に位置する「今」とは、宇宙に果された創世からの意志「摂理」なのです。
なぜ普遍的無意識という群れ意識はあるのでしょう。
共通的とも全体的とも言われる無意識です。貴方が生まれ育った所には、独自の言語や習慣などが存在し、その地域の共通的な無意識が心に育ちます。
例えば、高校野球などでは、地元を応援するし、ワールドカップでは自国を応援するでしょう。
普遍的無意識は各宗教にも当てはまります。
人の深層心理に普遍的無意識がある以上、人類はあるー定の群れ生物なのです。そのように進化しなくてはならない、弱い生物だからです。個人よりも家族、家族のために群れと、継続を守るために、無意識に群れを固める生物なのです。
文化を持ち社会的に守られる人間の心とは、実は弱さをカバーし継続を果たす真理であり、子孫や親を守りたいとう感情は、実はそのための機能なのです。
普遍的無意識を乱さない、摂理ある人生の工ンジョイとは素晴らしいものです。
しかしリベラル過ぎて自由を勘違いしたり、「らしさ」を取るという行為は、普遍的無意識を消したり、結果「摂理」への免疫を作れず、不良や犯罪を横行させ、生態系に変化をおよぼし、潮流を弱体化させるだけです。
無意識である氷山の海面下、最も下の位置には本能があり、その上に群れ意識である普遍的無意識が形成され、最上部に個人的無意識が位置します。
「義」は継続のための個人的無意識には入らず、普遍的無意識に構築されます。
一般にはこれを社会的責任感とでもいうのでしょうが、「義」は少し違います。新訳武士道において「義」の頂点は、この潮流を継続する責任であり、人間がつくる社会とは異なる価値観だからです。弱い生物「人間」にとって、普遍的無意識の乱れは潮流を崩す行為です。
人は人を殺すことも、その肉を食うこともできます。盗みも強姦も何でもできるのです。
社会は法と宗教でそれらを許さないでしょう。
「義」は普遍的無意識の観点から、継続の潮流を乱すものとして、それらを許さないのです。
私たちの人生が継続への摂理なら、生は継続するためのメモリーということになります。
継続を果たす死は充実するでしょう。
群れとは個々の命を守るために生まれた、普遍的無意識であるとするなら、その実態は継続への力を得るために、本能から生まれた摂理なのです。
継続の本能感と、群れ意識を乱すことのない信念。「義」とはこの潮流を守ることが軸になります。おのずと何が道なのかが解って来ます。
潮流を導き、継続を乱すものは何か。
人にとって普遍的無意識が、いかに大切なものかが、お解り頂けるでしょう。
子供、親、兄弟、日本国、世界。

武士道が創世され開花した深層の奥、真理を求めて真陰流は現代に発進します。近々都心にオープンする「義」を興すための道場「興義館」は単なる格闘技の道場ではありません。普遍的無意識を守る精神がどんなに心を強くし、人間的にも形成されるか、お解かり頂けるでしょう。
真陰流は科学に裏打ちしたものを含め、武士道の精神的技法を現代によみがえらせます。
歴史は言うでしょう。敗戦から空白化され荒廃した心の病を、三千年の足音と共に「復活しろ」と、先人達の見えない力が奮い立たせた精神術だと。
尚、「興義館」という名は、今、DNAの採取に南極に四ヶ月の冒険を行っている最中の、小方が命名したものです。頑張れ小方!
掣圏真陰流 創師 「興義館」 佐山 聡




2006.01.04
明けましておめでとうございます。
本年も私は武士道を一つの現代武道にまとめ、日本復活の要にする炎の魂となります。
礼儀作法・立居振舞・剣術(居合)・禅(催眠)・格闘術(掣圏・総合・キック)・武器術・真歴史教科・思想等を行ない、明日のサムライを真剣に育てる機関を発進いたします。
歴史上初の武士道道場を作リ、より強力に新訳武士道の完成を近づけてまいりますので、皆様におかれましては、ご理解、ご支援の程、よろしくお願い申し上げます。
かねてより押し進めている武士道についてですが、実は過去において、定義化されたことはありません。明治になり、列強に対抗する精神支柱として、待の時代の良き精神を取り入れることが、最も有効な手段として必用なものでした。
実祭に各藩で培われた精神性は、今を生きる私などには到底及びもしないものです。
ただ日本精神復活をかけて、世界グローバリズムにも恥じない心根を失わないよう、節に行動するのみです。
武士道の「道」とは侍の時代、当時であれば藩やお家を、命をかけても守ることにありました。
そのため、自己を磨くために武術や弓術などの術を行ない、朱子学等を学び、文化をも守りました。
270年前、本居宣長が歌った。
「敷島の大和ごころを人とはば 朝日ににほふ 山さくらばな」のごとく、
敷島日本には独特の精神文化があり、それが七百年の歳月をかけた、我が国の精神的基盤である、待の規範であったことは言うまでもありません。
これに驚嘆したのは、明治の時代、文化的に進んでいた欧米の人々です。こんな文化が極東の端に育っていたことに驚いたのです。礼儀正しく街もきれい。これまでに接してきた国々の人とはあきらかに違うし、きちんとした文化があると、尊敬さえされていたのです。神道や仏教や朱子学などの思想から、独特の封建制における規範が育ち、明治に民主国家となっても、その基盤は揺るぎませんでした。
戦後40年ぐらいまでは、かろうじて守られたと言われています。しかしそれからは落ちるー方。
今では精神的基盤を失った国が、どう進むか見守られています。
ラムズフェルドは将来なくなる国の、四番目に日本を上げているくらいです。早く気づいてほしいのです。あきらかにこの国の若者は、世界の国々の若者としゃべる次元が違い過ぎます。
日本で精神的な話題を出すと「何を言っているの」と言われるのがオチですが、先進国ではその話題が出来ないほうが、嫌悪寒を抱かれてしまいます。
この辺の教育が日本は全く閉ざされ、まるで奴隷にされ、自立したくない教育を受けた者の精神状態と、同レベルになっています。
もう一度言います。自立できない奴隷にされた精神体形が、今の日本の精神状態になってしまっていると。
裕福感や幸福感と、自立心とか責任感などの、人や国を構築する「精神性」は違うのです。
お金が神で規範は二の次。
裕福だが奴隷のように、国家として自立する気も起こらない精神状態。
世界はこれがまったく逆なのです。
そもそも宗教心がない事自体、世界では疑われます。えてして多くの日本人は、宗教は悪い事。宗教があるから戦争があるのだと、どうどうと言い放ちます。それが奴隷的精神を植えつけられた結果だとも気づかずに。(私が言っている宗教は、新興宗教のことではありません。人間形成に影響するもののことを言います)
対して世界の言い分は、「どうやって、あなた方は人間形成されたのですか」ということです。
宗教間の問題は大変ですが、彼達にとって人間形成の宗教を持たない者ほど、異宗教者よりも嫌がられるのです。
世界が日本を認めているのは、明治から昭和にかけて、それまで五百年の白人優位社会を、ただ一国がぶち破ったからです。
当時の差別社会の中、あの欧米と堂々とわたり合ったからです。
白人社会にとっては、文化国日本が、誠実で信用を共有できる人間性だと認めたからです。
イギリスの教科書には、第二時世界大戦、日本は戦いに巻き込まれ、日本が戦ったせいで、世界の植民地が解放されるきっかけをつくったと書いてあります。
戦後日本の歴史教育は違います。
戦争は勝った方が歴史を造るのは当然です。そんな茶番を利用したのも、当時、戦勝国側についた反体制側、或は体制側であっても協力した日本人です。日本が一方的に悪い戦争をしたなどという歴史観は、戦勝国とそれに協力した彼らによって捏造されたことが、今、色々な資料で明らかになってきました。
戦後間もない、昭和20年12月8日から十日間にわたって、全新聞の一面に掲載された「太平洋戦争史」や、翌9日から一年間流し続けたラジオ番組「真相はかうだ」「真相箱」「続・真相箱」などの宣伝作戦や、協力者たちの教育で、当時純粋な日本人は「そうだったのか」という人々に染まっていったのです。ラジオは効果音とともに、学校の授業にまで放送されました。
その教育を受けた純粋な子供達が、どんなアレルギー反応を起こし、どんな国家造りをするでしょうか?
とどめは「東京裁判」です。11カ国の判事のうち、11カ国が連合国側。結果は皆さんご存じ通りです。そればかりではありません。当時各地で行われたBC級戦犯と呼ばれた、裁判という名をかりた捕虜虐殺は、1161名にも及びました。
すべて負けた側が悪にされて。
しかも自国民にも宣伝戦略され。
それが戦後の精神構造に向かわせます。
近年「歴史の真実」などの本が出版されベストセラーになり、多くの方が真実を認識してまいりました。
日本人として歴史の真実はしっかりと学びましょう。そして読むだけではなく、まともな人間として真の強さを持ちましょう。
私は外国の人との話し合いで「あなたの宗教は?」と聞かれると、決まって「武士道です」と答えています。
中には「え!武士道って宗教なの?」と聞き返して来る人もいますが、
「宗教ではありませんが、大変厳しいルールとマナーの精神哲学です」と言うだけで納得してくれるのです。
「裕福感」だけで暮らしても将来はあるはずもありません。武士道道場ではその教育もします。
生きることへの何が真実か、はっきり答えを教える所でもあります。
格闘技において技術がどうのこうのというものは、私にとっては、とっくに過ぎ去っております。
確かにこの武士道道場では、格段に深い精神性と技術がー体化し、プロ部門ではとてつもない選手が育つでしょう。
しかしその者は、町人拝金主義には溺れず、「義」を通す将来の大者のー人になるでしょう。他のサムライと同様に。
私にとってはその選手も、サムライのー人でしかありません。
ご存じの通り十年間以上、総合格闘技の創始創立指導者としての立場であり、皆さんにとって、その指導法が未熟であったとは思えないでしょうが、行き詰まる所、精神面を育成しなくては、どんな強い選手を育て上げても意味のない事だと、痛感するに至っていました。
当時シューティングを修斗(戦いを修めるもの)と改名したのもそのためです。
古いファンなら覚えているでしょうが、私の目標システムは日本の大相撲でした。
精神性を伴う制度においての格闘技を造りたかったのです。
私にとって町人拝金性格闘精神はムシズが走るものでした。そもそもの道が違うのです。
未熟な私が徹底追及していたものは、技術や体力であり、健全なる肉体に健全なる精神が宿るのみで、良いのだと思っていました。
しかし自分を売る事だけに全カを傾ける若者の精神。
何がこの者達を造っているのか?
その疑問を感じていた私に一番ショックなことは、外人選手の方が礼儀が出来ていて、精神力も強かったという点です。
いったい何が日本人に作用させているのか?
日本に住むまともな外人が最近よく言うのは、文化的な違いは差し引いて、モラル的なことを強く指摘してきます。
あるアメリ力の友人は、「日本は、あと2〜30年しか持たないよ」とまで言います。
二十年前の日本と、まるで違うというのです。
「この若者達が親になって子供を育てるんだよ」と、信じられない!というポーズをして。
対して日本の大人は、これまた平和ボケして、親になれば自然に解かり、変わると言います。
もうそんな次元ではないことすら、認識できないのです。
導きとは文化であり、人間の基本をそらさないことです。
格闘技に精神性をのせなくては、甘い金の言葉にホイホイのっていき。信念なく、強い者には弱い姿となり、社会性を持たない分、まるで一般人よりも弱い精神性となるだけです。
みなさんが見ているのが、いかにも強よそうな体と態度をしているくせに、リングを降りると全く弱い精神だとしたら、ただの力ボチャに過ぎません。
リング上と一般社会は違うのです。
私は格闘技を造っていたのではなく、個人主義の利用に走らされていたのです。当全、全体像は町人拝金性に向かいます。
格闘技だけではなく、精神性を造る体制をいち早く造らなくては、この国がダメになると真剣に思い始めました。
私もあなたもそうかもしれません。もしこの国が人間にとって、一番大切な何かを無くしているとするなら・・・大問顛です。
精神に対する私の挑戦の始まりです。それからは皆さんもご存じの通り、徹底的にやらせていただきました。精神分析学から歴史の真実、宗教、武士道や居合、催眠にいたるまで。
真陰流の理論はチェアウォーカーWaWaWaに連載していますが、ここでは解りやすく書いてみましょう。
基本は、弱さ強さとは何かということです。
強さは多種多様存在します。そのほとんどが見せ掛けだけの、心理的カバー作用における強さに過ぎません。
強さとは深層心理の底、すなわち本能に築かれた衝動に表れるというのが基本です。
催眠を行なっているとよく解かりますが、人間の深層心理には第ー思考というものがあります。
そもそも精神とは、氷山のようなものと言われています。海面に出ているのは全体の10パーセントに過ぎず、残りの90パーセントは海の中にあります。
今あなたがこの文章を読んでいる、意識の世界が、毎上部分であり、実際あなたが過去に培って来た経験や感情は、あなたの海の下の部分90パーセントに備蓄されているのです。
どう備蓄されているかによって衝動は変わります。
例えば、無意識の世界は、あなたの部屋のようなものです。夜あなたが帰宅した時、突然停電になったとしましょう。勝手知ったるあなたの部屋は、暗闇になってもどこに何があるかぐらいは分かります。よく使用しているものであればなおさら・・・。
もし路上で困っている人がいたら助ける。或は、お金が落ちていたら名前も告げず交番へ届けるなどが、部屋のどこにあるか分かれば、関連した何かがあったとき、あなたはその場所をいち早く察知し、衝動を起こします。
もしそれらが部屋に無ければ、ただ暗い部屋をさまようだけでしょう。
なお意識と無意識の間にはフィルターがあります。六才くらいまではこのフィルターは存在せず、常に無意識に入り自身を形成していきます。この時期に形成されるのが「第一思考」です。
私が催眠を行うことを、実験段階から知っている知人に紹介され、精神的に病んだ人がよく来ますが、その人達の多くが、この時期に形成された第ー思考の影響です。
精神的に病むには原因があります。原因のない先天的な人は催眠ではだめです。またアドレナリン等で視床下部の海馬まで溶かされたような、物理的なところまで行った人も、薬などの治療が必要です。あくまでも催眠は無意識に働きかける、暗示によって作用させるものだからです。
近年MRIの開発で、催眠がどういう作用を脳でするのかが解ってきました。
催眠状態にいる被催眠者をMRIで見てみると、右脳の方へ電極が集中するのです。
右脳はイメージの分野です。要するに人間の無意識もイメージの世界なのです。
そのイメージに造られた感情が、上から入ってきた実写に照合され、自分ではコントロール出来ない自立神経に連動されます。
催眠の特徴は自立神経を整えることと、無意識の奥まで自我が入って行くことです。
普通、催眠は精神障害などの治療に使われるものですが、逆の発想をしてみれば、精神の強化や、暗示性の深さを理用し、スピード・パワー・技のイメ一ジ等にも使われます。
衝動は根底の精神から構築すれば完全なものになります。無意識の根底とは本能です。その根底から充実させるものが真陰流なのです。
「陰」とは、今=壺などの蓋 云=霊などの雲気 を表し、蓋をされた壺が無意識部であり、その壺の中にある雲気が無意識を構築している姿です。
蓋の外は意識と外界になります。
この場合、蓋の存在は大変重用であり、意識と無意識を分けるだけではなく、意識と無意識を交互に繋げるフィルターの役目もします。
先に書いたように、人間は六才頃までこの蓋(フィルター)が無く、どんどん情報を雲気として無意識に構築させます。第ー思考の源です。
また十五才ぐらいまで、この蓋をせっせと造り結けます。
外界から入って来る情報は「信条」という蓋フィルターとなり、下の雲気を形づけ、その雲気は「観念」となって蓋を通過し、外界へと出て行きます。
真陰流はあなたの雲気を構築し、強者となって外界へ導きます。
真陰流の最大の頂点は「義」ですが、一言に言っても理解できないでしょう。
次回は「義」について書きます。


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